いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

96年前祖母が生まれて、一昨日死んで。ぼくはこの世でまだ道半ば。道は未知。

母からの電話だった。

「横須賀のお婆ちゃんが亡くなったの」

驚きはしなかった。もう10年近く老人ホームにいた。でも、そろそろ会いに行こうと思っていた。数日前から肩が痛くて整体で診てもらっていた。肩の痛みと祖母が他界したことが自分の中でリンクした。

20代の中頃、占い師のマドモワゼル朱鷺ちゃんがウチに住んでいたことがあった。朱鷺ちゃんはタロット占い師として有名人だった。一緒にいたけれど、当時、ぼくは見えないものを信じていなかった。まったく。だから朱鷺ちゃんに「あなたは才能あるのに、見えないモノを見ようとしないから自分自身さえ見えてない」と言われていた。

朱鷺ちゃんは、風を呼んで公園の木々を騒わつかせることができた。静かな夜に突風を起こすことができた。今ならそう言うことができる。当時は、偶然だろ、と鼻で笑っていた。

死が身近になると、なぜか朱鷺ちゃんを思い出す。


ぼくはこれまでに3回交通事故に遭っている。1回目は小学校に上がる前、友達の家の前のスーパーマーケットにお菓子を買いに行ってクルマに轢かれた。頭蓋骨を骨折して入院した。2回目は、大学生のとき。彼女と自転車に乗っていて後ろから撥ねられた。足首を複雑骨折した。3回目は、28歳のとき、背骨を圧迫骨折した。毎回、意識を失った。目覚めると事故の後だった。起きた瞬間のことは覚えていなから、どこか別の場所に意識が消し飛んでいた。どこだかは分からない。

二回目の骨折のとき、足首をボルトで固定した。そのとき地球の気持ちになった。自然環境をアスファルトやコンクリートで固めて鉄筋でビルを建てることと自分の左足首の出来事がリンクした。ぼくの足首は近代化したと感じた。とても不自然な感じだった。以来、人間は、地球にとっての細胞のみたいな存在だと思うようになった。


祖母が亡くなって、お葬式に行くのに喪服がないことに気づいて、田舎暮らしだから30分くらいかけて隣のいわき市イオンモールに買いに行った。黒いスーツを選んで裾上げを頼んだら3日後と言われ、妻チフミが交渉したら2時間後になって、余った時間で本屋に行った。

棚を見ていたら「ひとはなぜ戦争をするのか」という薄い文庫をみつけた。1932年、国際連盟アインシュタインに「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください。」と依頼し、選んだ相手はフロイト、テーマは「戦争」だった――。

 

夜チフミと、ひとはなぜ戦争するのかについて話した。

チフミは

「もし他の国が攻撃してきて、仕事も無くなって家族を殺されても、それでも戦争は必要ないと言い切れるの?」と質問した。

ぼくは言った。

「そう考えるから戦争がなくならない。どんな状況になっても戦争はしない、そもそもそんな状況にしない、という強い意志があれば、戦争は起きないと思うんだけど。だって殺人は悪いことだと理解できるんだから。けれども、人間には欲があるから、それをコントロールしなければ争いはなくならない。だからフロイトは文化が必要だって言ってる。

不思議なのは、20年前、もしくは10年前の日本では、戦争は絶対に起してはいけない、と多くの人が信じていたはずだ。ぼくらは、戦争の反省の上に生きてきたのだから。それこそ、ぼくの祖母の世代は知っていた。そして話してくれた。何があっても戦争などという愚かなことをしてはならない、と。それなのに0.1ミリでも、戦争が許容される考え方が存在しているなんて、ほんとうにこの世界はどうかしている」

うちの祖母は福島出身だった。20歳でうちの母を産んだと聞いた。実は祖父の最初の奥さんが早くに亡くなって、その代わり嫁いできたのが妹だったうちの祖母だという話しを聞いたことがある。96歳で亡くなった。


交通事故の後遺症なのか、近頃、左足の動きが悪くてもしかしたら、このままだったらと不安に思いながらストレッチをしている。けれども、まだ足は動く。走ることもできる。何かを失って初めてそれがあることの大切さに気がつく。

そもそも、とっくにぼくは、死んでいたかもしれないし、歩けなくなっていたかもしれないし、そもそも生まれていなかったかもしれない。だとしたら、当たり前のように過ぎていく今日という日があることすら驚きに満ちている。走ることさえ、歩くことさえ奇跡に思える。祖母のおかげで、ぼくはこうして生きている。

ぼくも、そのうち死ぬけれど、もう少し何かを残せそうだから、頑張ってみます。さようなら、ありがとうございました。おばあちゃん。