いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

今日できたことが明日できなくなるとしたら。

時間も状況も流れている。変わっていく。同じところに留まらなければ物語が豊かになる。おかげでこの先何が起こるのか予想できない。それこそが「生きている」という感覚なのかもしれない。

 

今年に入って、芸術祭が始まって、制作が一段落したからなのか、左足首の動きが悪くなった。20年以上前に交通事故をした箇所だから理由ははっきりしている。問題は、この状態は続くのか、悪くなるのか、回復するのか。自分で自分の身体の状態が分からないから、とりあえず様子を見た。片足でジャンプすることができなくて、ストレッチしたり走ったりしても回復しなかった。

 

先週から左肩も痛くなって、整体に行った。いろいろある治療から整体を選んだ。

先生に「肩が痛くなって、その前に左足首が痛くて、もしかしたら関係あるんですか」と質問したら「身体だから繋がっているけれど、直接の原因になっているかは分からないね」と診察を始めた。

先生に左足首はどうなっているのか聞いたところ「骨盤が歪んで、足の左右の長さが違っていて、左足首は内側に曲がっている、きっと交通事故の影響だろうけど、20年近く積み重なって出てきた症状だね」と言われた。

 

27歳のとき、背骨を骨折したときに医者から「歩けなくなるかも」と宣言され覚悟した。それで、動けなくても働ける職業になろうと決意して、芸術家を目指した。だから覚悟はできている。左足首はその5年くらい前のことだから、身体と向き合うタイミングが来たんだと思った。

 

毎日読んでいるトルストイの「文読月日」に書いてあったことを思い出した。

ソクラテスは牢獄で言った。「ねえ君たち、苦と楽は実にうまく組み合わさっているね、牢獄で繋がれた鎖のせいでずいぶん苦しかったけど、鎖をはずされてみれば、ことのほか楽しい。きっと神は互いに対立する苦と楽を和解させようと思って鎖でひとつに繋ぎ合わせ、一方を経験することなしには他方も経験できないようになさったのだろう」

 

失ってはじめて、その大切さを知る。食べ物がなくなってその有り難さを知る。歩けなくなって歩くことの素晴らしさを知る。死んでから生きていることに感謝する?それでは遅い。この瞬間があることそれ自体が奇跡なのだから。