いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ぼくらの生活に椅子は必要なのか。思考しない社会のなかで。

電話が鳴った。取ると

「こんにちは。ちょうど良さそうな椅子が入ったのでメールで写真を送るから確認してください」

と言われた。

電話をくれたS老人は、リサイクル業をやっていて、何かチカラになれればと、一カ月ほど前に改修中の廃墟に足を運んでくれた。その時に、店舗と倉庫に一度来たらいい、必要なモノがあれば提供しますよ、と言ってくれた。

送られてきたメールの写真を見ると、それほど魅力的な椅子ではないものの、わざわざ山奥まで足を運んでくれ、親切から協力を申し出てくれているのだから、今回だけ受け取ることにしようと考えた。

S老人に電話を折り返す前に、妻のチフミに椅子を引き取っていいか相談すると予想通りチフミは「要らない」と答えた。そうだ。妻の言うようにこの椅子は要らない。

けれどS老人の気持ちを思うと、椅子は要らなくても、何かの縁だし、実際見て要らなければ、断ればいいからとりあえず、S老人のお店と倉庫に行ってみようと説得した。

 

今朝、軽トラックをレンタカーして1時間かけてS老人の店舗に向かった。到着して店内を見渡すと、リサイクルショップらしく生活品が雑然と並べてあって、そこに例の椅子が8脚もあった。たぶん、キャバレーやスナックにあった椅子だったと想像できる。実物を見ると、さらに魅力がないことがハッキリする。

S老人は全部で20脚あるから、残りを倉庫に取りに行こうと言った。チフミは「要らない」という顔をしている。クルマでS老人のお店に向かう途中、椅子を受け取りたいというぼくの気持ちを察してくれ「椅子以外は受け取らないからね。約束ね」とチフミは言ってくれた。

だからS老人に「8脚だけで充分です」と大きな声で伝え、倉庫を見学させてくださいと付け加えた。

 

ぼくは椅子が欲しいんじゃない。出来事に遭遇したいだけだ。だから椅子を受け取った。これも制作のひとつで、コラージュをやっている。現実に起きる出来事をコラージュして人生を作っている。「椅子」を受け取るという行為を通して、未知のS老人と交流し、その世界に触れている。

 

S老人の仕事は、都内から大型トラックで週二回運ばれてくるゴミを引き受けることだ。今日も4トンのトラックが二台来る予定になっていた。クライアントは、S老人の倉庫に運ぶことで、ゴミの分別作業と処分する労力を省いている。その対価としてS老人は、その処分費と労力を金銭として受け取る。そのゴミの中で再利用できそうなものを店舗に並べている。

倉庫の周りには、モノが溢れている。ゴミの山だった。倉庫の中にも、分類されないまま、様々なモノが積まれている。工具や箪笥、建具、衣類、オモチャ、誰かの家にあったモノたちが集積している。

S老人は

「もうこんな状況ですから、モノを分別する余裕がないのですよ。中には使えるモノもありますよ、価値があるとか、けれども、その買い手を見つけるのも苦労する訳で、壊れていれば修理してお店に並べたいけれど、それも手が回らないのです。だから、あなたたちの役に立てるならそれも意義があると思って、ですから、必要なもありましたら、いつでも連絡ください。すぐにみつかる訳じゃないですが」

と言ってくれた。

 

ぼくたち夫婦はそれほど必要としているモノはない。そもそも生きるために必要なものは何千年も前から人類には与えられている。もう充分なんだ。夏に新聞が取材してくれたとき、廃墟を再生するために廃材を呼びかけた。以来、協力を申し出てくれる人が現れる。断ればいいのかも知れない。けれどもぼくは人間が好きで、接触したいと思ってしまう。もうひとつの理由には役に立たないモノを役に立たたせてみたい、という気持ちもある。ぼく自身、役に立たない人間だから共感してしまう、捨てられるモノたちに。

 

帰りのクルマのなかでぼくが

「モノがどんどん生産されて消費されてゴミは増える一方で、けれどいつか生産する人も消費する人も、やがてはすべてのモノがゴミなると気がつ草未来があるかもね。だって燃やせないモノは埋め立ててるんだから人間が暮らす土地がなくなっちゃうよ」

と言うとチフミは

「けれど、そうやって綺麗事を追求していったら経済は回らなくなっちゃうよ。仕事もおカネもなくなっちゃっていいのかな。分かっててもどうにもならないし、どうにもできないんじゃない? それがちょうどいいから、こうなっているんだよ」

と答えた。

 

ぼくは、少し黙って返すべき言葉を探した。世の中は嘘ばかりだ。正直に生きたら、社会不適合者になるだろう。必要ないモノをどんどん生産して消費させる。そのために過剰な広告が考える余地を塞埋め立てる。

働くのが嫌だと感じるとき、それはプラスな働きをしていないと薄々気がついているからだ。つまり社会全体には何の考えもなく、その場しのぎで循環している。それに気がついた人たちが、何かを表現してきた。古くは宗教や文学で、映画や漫画やアートなど、人間は物語に託して、進むべき未来を想像してきたんじゃないだろうか。

 

ぼくはこう答えた。

「結局、原発と同じことだよね。ゴミは増える一方だと分かっているけど、それを追求して、現実を突き詰めたら経済が回らなくて、それには触れないってことだよね。そうなんだ、そうなんだよ」

 

椅子を運んだ軽トラックが、北茨城市の山の中の廃墟に着いたとき、日が暮れてきて、景色は山と草だけで、何もなくとても美しかった。こういう何もない山奥に最終処分場がつくられている。生産者も消費者も、それを知らない。それを知ったとして、ぼくたちにできることは何か。答えはなく、問い続ける先に道がある。

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