いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

作品構想「D-HOUSE(災害の家)」

昼過ぎから雨が降ってきて、午後は施設の芸術による活性化についての会議があって、チフミにクルマで送ってもらい、終わって夕方、パソコンをアトリエに忘れたことを思い出して、迎えに来てくれたチフミと山のアトリエに戻った。

強い雨が降り続けて、北茨城市のお隣のいわき市の川が次々に氾濫して携帯の警報は鳴りっぱなしだった。山の方へ向かう道の途中は、ところどころ冠水してたので、もう家に帰るのはやめて、アトリエに泊まることにした。

18時頃に着いて、締め切り直前のデザインの入稿作業をしていると、窓の外を見たチフミが騒ぎ始めた。

「家のすぐ前まで水が来てる!」

土間をギャラリーにしたスペースは、ほとんど地面レベルなので、水が入ってくるのは時間の問題だった。チフミは「わたし地面を掘ってくる!」と家の外に飛び出して行った。

ぼくは19時までに入稿しなければならないので、チフミを早く助けに行かなきゃ、と思いながら、データを仕上げてアップロードして、とやっていると、こんなときに限ってパソコンの動作が遅くなって、焦ってさらに手間取っしまった。データを送ってすぐ、着替えがないからズボンを脱いで裸にパンツでカッパの上着を来て、外に飛び出した。

アトリエの敷地の前は川のようになっていた。下へ流れる水と、アトリエの方に流れてくる水と二手に分かれていた。水は山から流れ落ちてきて、道路の側溝はすでに土砂で埋まって収まり切らずに溢れてどんどん低い方へと流れていく。チフミは、スコップやツルハシで溝を掘って建物の周りの水を迂回させようとしている。

とにかくアトリエの敷地に流れてくる水を塞ごうと思い、いつもベンチにしている椅子を堤防にしようとしたら、水の流れに動かされて浮いてしまうので、石と丸太を積み上げて動かないようにした。建物の方に流れ込む水が減ったおかげで、床下浸水までの時間を伸ばせそうだった。雨は弱まる気配はないけれど、携帯の雨雲レーダーによれば深夜12時ころには、雨も止むようなので、あとは天運に任せることにした。

台風19号のときは、北茨城市にいなかったので、状況が分からなかったけど、なるほど水害は恐ろしい。まだ10月で寒さもないから、対応できたけれど、冬だったらほんと恐ろしい。それでも、水の流れを見たおかげで、アトリエがどんな地形にあるのかを知れた。

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翌朝は、快晴だった。結局、被害はなく済んだ。パソコンを取りに戻らなかったら、土間のギャラリーは浸水していた、危なかった、と思いながら、ぼくは積み上げた椅子の堤防を片付けて、チフミは建物のいろんな場所をチェックして、水が溜まっているところの土を掻いて水を流した。

ここは、まだ地面が土だから改良する余地がある。もしコンクリートアスファルトだったら、もう手の施しようがない。木や石も転がってたからそれも使えた。

アトリエはなんとか大丈夫だったので、改修している住居と倉庫を見に行くことにした。倉庫は屋根を掛けている途中で、新しくした柱や梁が濡れてしまった。まあ、何十年も放置された廃墟だから、今さらではあるけれど。

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ちょうど、いま、ドイツの哲学者ハイデガーの「建てること、住まうこと、考えること」という講演の本を読んでいて、水害を体験したこととこの本に書かれている言葉が思考をさらに深くしてくれた。

この本は「何のために家を建てて、そこに住むのか」について徹底的に考え抜いている。つまり「建てる」「住む」ということの本質を追求している。理解するためのポイントは「本質」だ。

家は水害に遭うかもしれないし、地震や台風や火災もあるかもしれない。けれども、家を買うときは、悪いことより楽しいことや便利なことに気がとられる。あまりに商品価値的な情報に振り回されて「家」というモノについて、それが何なのか見えなくなっているとも言える。立地とか価格とか、機能とか、便利さとか。けれども、それらは「家」ではなくて、状況に応じて追加されたり、されなかったりする付加価値でしかない。

銀座にあろうが、ニューヨークにあろうが、北茨城市にあろうが駅から何分だろうが、「家」は家なのに、そうやって付加価値情報に振り回されていると、家は肝心なときに役に立たないどころか、人生を台無しにする家になってしまうこともある。

今はまだ水害に完全対応した「家」なんて販売してないし、そんな家電もまだ売っていない。けれども、水害が頻繁に起これば、そういう商品が出回るようになる。きっと。「ノアの家」とか。でも、それもやっぱり付加価値情報に過ぎなくて、いつ来るか分からない水害に対して、シェルターや船みたいな高額な建物を購入して安心したところで、それでもやっぱり「家」の本質に触れることはできない。

「本質」が見えるのは価値がなくなったときだ。人間の欲が塗り込まれたあらゆる価値が剥がれ落ちて、単なるモノになったとき、その空虚なところにモノの本質が現れる。人間もそうだ。服だったり化粧だったり、中身を偽ってフリをしたり我慢をしたり、そういう余所行きの演技をやめたとき本当の人格が現れる。

では家の本質は何か。それこそ、ただのハコだ。屋根があって、壁があって、床があって。家なのはそれらの囲いではなく、そのなかにある空間だ。屋根と壁と床がくっついていては家にならない。けれども空間にモノが詰まっていて隙間がなくても一応は家とされる。とにかく空間があることが家の条件だ。そこに人が暮らすことも家の条件だ。住んでいなくても暮らす目的で建てられたモノが家になる。

いま改修している廃墟は「家」ではなかった。住宅展示場から廃棄される鉄骨の住宅の一部分が、港に運ばれて漁師の倉庫として使われた。その役目も終わり、山の集落に引き取られた。工務店の倉庫の横に設置され、暮らせるように改造が試みられた。ところが、工務店は倒産して、解体や施工をしていた工務店の資材が山に積まれたまま、この場所は放置されてきた。30年以上。

この場所にあるモノたちには付加価値情報がない。価値がないから、モノというよりゴミだ。この「モノが変質していく存在価値のグラデーション」という現象に気がついた。

①買ってきたときは新品の何か利用価値があるモノ。

②使っているうちに飽きてしまったり損なわれたりしたモノ。

③いよいよ役に立たなくなったモノ。

この3つはすべて同じモノだ。モノは最終的に廃棄物となる。手に入れるときは苦労して、手に入れたときは嬉しかったとしても、廃棄物にならないモノはない。つまり水に流されてしまったら、すべて廃棄物=ゴミになってしまう。

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廃墟にはテレビが5台放置してあって、年代物のブラウン管で、もちろん壊れている。素晴らしい廃棄物のサンプルだ。これを捨てるにはお金がかかる。サイズによるけれど、3000円とか5000円とか。チフミが市の清掃センターに問い合わせたら、電気屋でも有料のリサイクルで引き取ってくれる、と教えてれ、某電気量販店にチフミが問い合わせると、面倒臭そうに対応された。とりあえず、テレビ4台をクルマに積んで持ち込むと、店頭でも「4台もですか、、」明らかに嫌そうにしている。チフミが「4台も持ってきて迷惑でしたか?」と聞くと「そんなことはないですよ、、」と言いながら、リサイクルの手数料も取ってないし、電気量販店で引き取るメリットがないと説明した。たぶん、量販店がメーカーに持ち込んでも同じ対応なんだろう。リサイクルの思想ではなく受け取りたくない気持ちだけが循環している。

想像して欲しい。例えば、台風や地震で、家が壊れたとして、どれだけの持ちモノがゴミになるだろうか。テレビ4台どころの話じゃない。家屋の材料の多くは、捨てることができないものばかりだ。捨てらないモノは、埋め立てられる。ぼくらが暮らしているこの大地のどこかに埋められている。

21世紀。現代。これでいいのだろうか。ぼくたちは、もっと可能性豊かに暮らすことができる。ぼくはそう信じている。生産する者、消費する者。この循環のなかで、誰もゴミになることを考慮もしないで、問題をただ先送りするだけで、少しも未来的でもないし、何も循環していない、この現実に裂け目を入れたい。

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これはステートメントだ。

新しい作品「D-HOUSE」だ。

Dは「Disaster(災害)」つまり「災害の家」この家は、廃墟だった。捨てられた価値のない家。むしろ、ゴミ、産業廃棄物の荒地だった。

ゴミを分別し、使えるものは再利用し、また別の場所の廃棄物を運んできて再利用してこの場所は作られた。この家には下水道も水もない。けれども荒地は開拓され場所は生まれた。死んだ土地は生き返った。ここから生まれる何かがある。屋根も壁も床もある。つまり「家」がある。

わたしたちは

ここで暮らしを試みる。

「家」とは何か

「暮らす」とは何か

その本質を表現するために。