いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

廃墟再生日記 その4

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【すべてのインフラが止まってしまう】そんな小説を書きたいとイメージしていた。ところが、それは空想ではなく、すぐに現実になってしまった。

週末、関東地方を台風が直撃した。都内は電車が止まり、成田空港からかはすべてのアクセスが機能しなくなり、空港に人が溢れた。千葉県やそのほかの各地で、家屋の屋根が吹き飛び、停電や断水で、陸の孤島となった。

 

ぼくが暮らしている北茨城市は、それほどの被害はなかったけれど、まさに今取り組んでいる廃墟は、まるで台風の被害で壊されたようだ。いつ災害がやってくるか分からない。だったら、災害が来ても生きていける環境を自分で作った方が、安定安心の暮らしが営める。安心をおカネで買うのか、自分で確保するのか。何かあったとき誰かのせいにすれば、それで解決するのか?

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破壊されたような建物は、屋根や壁が壊れていて、電気、水道、トイレがない。こんな状況ならとにかく、雨を防ぎたいと考える。雨は、木材を腐朽させるし、衣服が濡れれば、体力も奪われる。だから人間には屋根が必要だ。

ここ数日、屋根を直して分かったことがある。無理な姿勢をしない。安心して作業できる状況にする。この2つを確保すれば、あとはコツコツと作業を繰り返すだけだ。急ぐのも良くない。自分のペースで気長にやるのがいい。「安心」とは、誰かに提供されるものではなく、自分で確保してはじめて心が安らぐ、そういうことだと思う。けれども自分で安心を確保するということは限界を知ることである。限界を知ってこそ、緊急時に対応できる。

ぼくが、身の回りにあるものをできるだけ利用して生活を作るのは、できるだけ独立していたいからだ。インディペンデント。独立の反対は依存。つまり依存している先がなければ、生活が成立しないのだとしたら、何か起きたとき、自分のチカラではどうにもできないことになる。もちろん、何にも依存しないで生きていくことはできない。水や空気が無くなれば、人類は滅びる。でも時代は本末転倒で、水や空気が無くなっても人間は生きていけるような振る舞いをする。そういう錯覚に陥っている。

だから、自分の生活がどこに繋がっているのか自覚していたい。前の日記で書いたバタフライ効果だ。自分のしたことが、どう社会に影響を与えるのか、このことに無自覚では、未来を変えることができない。自分の明日さえコントロールできない。基本的に人間は狂っている。ぼくも狂っている。だからこそ自制する必要がある。

 

何かの映画だったか「都市に暮らすと自分と向き合う必要がなく、その他大勢でいられるから痛みを忘れられる」というセリフがあった。

ぼくならこう返事する。

「そうだね。けれどぼくは、痛みを見えないフリしているのに耐えられない。自分と向き合って、この時代に必要なことに取り組んでいたい。ぼくは都市には暮らせない。もっと大切なことがあるから」

 

ぼくにとって大切なことは、表現することだ。絵を描くことも、詩を書くことや文章を書くこと、家を直して暮らすこと、価値をつくること、そのどれも、自分と向き合わなければ、奥底から湧いてこない。

廃墟を再生するのも、これまで社会が放置してきた問題をこの何十年後かにどうしようもなくなって、見えないフリを続けるのは分かっているから、そうなる前に、常識や価値を転換させておきたい。とっくに限界を超えてSFのようなディストピアに突入している。だから自分の周りを変えることで、未来の景色を変えたい。

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そうだ。景色をつくりたい。それは、誰もいなくなるかもしれない限界集落に、何もないと言われる日本の田舎に、そこにある環境を最大限に利用して、大地の芸術作品を作りたいと思っている。巨大な庭のような里山を、ここに自然と人間がハーモニーする理想郷を作りたい。これは、今、自分がいる場所から見える夢だ。

勘違いかもしれない。運の尽きか、もしくは運がついてきたか。結果は行動に伴う。感じることを信じる。素直に従う。モノは生きている。作られたモノには役割がある。家も生きている。何十年も建っていれば、それは化け猫みたいにモノノケとなる。家の声が聞こえる。

「俺はまだ生きている」

同じように土地も生きている。人間には自然をつくることができない。雑草の一本も無から生み出せない。表現できるのは、自然そのものではなく、自然のようなことなんだと思う。自分で見る夢には限界はない。その夢を見ているのは自分だから。立ち上がれ。自分のチカラで。歩き続けろ。