いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ぼくができるなら誰でもやれる。生きるための芸術を。

“There is nothing outside of yourself that can ever enable you to get better, stronger, richer, quicker, or smarter. Everything is within. Everything exists. Seek nothing outside of yourself.”

SNSを眺めていて宮本武蔵の文章の英訳をみつけた。

50歳になった。去年50歳になると勘違いしてた。だから長く感じた2年分の49歳だった。

自分に何ができるか理解するのに時間がかかった。その答えは何ができるではなく、何がしたいかだった。

28歳のとき交通事故で背骨を折ったとき、好きなことをやろうと決意した。文章を書くとかアートをやりたかった。好きなことは分かっていたのに才能がないと決めつけていた。働きながらそれを始めた。10年後。38歳のとき会社を辞めてアートで生きていくことにした。東日本大震災で社会が機能しなくなったとき。周りの言うことを聞く必要がないと感じた。自分の判断を信じることにした。海外を旅した。アートとは何かを学んだ。

それからまた10年。プラス2年。いま個展をやっている。これは28歳のときに見た夢だと思う。ぼくはそこに生きている。

天才だとか成功したとか、競争に勝ったとか、掴んだとかではなく、自分の道を見つけただけだ。もう何もできないかもと諦めそうな瀬戸際で。競争に勝てないし、天才でもないし、やり方も分からない。没頭が許される環境が欲しかった。それが表現者になることだった。それしかなかった。

展示の帰り。駅のホームで、行き交う電車を眺めて、これで死ぬのも気持ち良さそうだ、と考えが過ぎった。死ぬ。それが人の最期だ。いまだったら気持ちいいだろう。たくさんの人が悲しんでくれる。自分は夢を叶えて消えてなくなる。

単に考えただけ。この先も見てみたい。なぜなら妻よりあとに死ぬと約束している。だから死なない。でも死はいつも生と一緒だ。隣りにいる。恐ろしいとか目を背ける人が多いけど、死は生の伴侶だ。ぼくは嫌いじゃない。仏文学者セリーヌは「生きた時間が一日増えて、生きられる時間が一日減った」と死について書いた。

双子座はこれまでの20年が終わると展示を見に来てくれた友達が教えくれた。明日から次の20年が始まると。

人は終わりの前に生きている。いつも。長さが違うだけで終わりは誰もが迎える。ぼくの母は80歳でまだ介護の仕事をしている。人間の最期を学んでいると言う。

ぼくはいま北茨城市という茨城県の端っこの山間部に暮らしている。木や草が生えて、鳥が鳴いていて、川が流れ、イノシシやタヌキがいる。みんな生きている。命を鳴らしている。その音がぼくを励ましてくれる。それがない都内の駅のホームで無機物に囲まれて死の気配に飲み込まれたのかもしれない。

身の回りにあるもの。それが環境だ。環境とは木や草や川や自然のことばかりじゃない。ぼくの周りにあるもの。きみの周りにあるもの。それぞれがそれぞれの環境を持つ。生態系のなかに生きる。生き物だから。会社も通勤もデスクも同僚も上司もマンションも環境だ。それら自分を構成する要素を編集する、調整する技術、それもまた生きるための芸術と呼べる。芸術的な人間関係、芸術的な労働環境。

まだまだ言葉にならない。人間が生きている状況、それを本人がコントロールできることを明らかにしたい。伝えたい。死にたくなったり不安になったら、環境を変えたらいい。生き物に必要なものは、空気と水と養分。人間なら水と食料、屋根、寝所。君を知ってくれる友人。苦しくなったら一旦減らしてまたひとつづつ増やせばいい。死を感じることは野生に戻ることだ。ゼロだ。マイナスじゃない。地に足が着いただけ。荷物を軽くしてまた歩き出せばいい。

冒頭の宮本武蔵の言葉に戻る。

自分自身のそとには、より豊かに強く賢く素早くするものは、君自身以外は何もない。