いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

消えていくもの、残るもの、伝えたいこと、変えたい社会。

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やりたいことが溢れている。サーフィンをしたい。釣りをしたい。ランニングしたい。絵を描きたい。眠りたい。季節の変わり目で、秋になろうとしている。

廃墟の改修がいよいよピークに差し掛かかり胸騒ぎが止まらない。心が騒いでいる。やったことのないこと、どうやったらそれができるのか、考えながらクリアする。やりたいことが溢れている、けれど日々の仕事に集中する。

仕事と呼んでいるけれど、それがお金になるということじゃない。自分がやりたいと閃くことに全力で立ち向かい表現する。北茨城市のおかげで、そういう環境が与えられている。産廃の山、ボロボロの廃墟を再生して、社会のマイナスをプラスに変えて見せたい。

ほとんどの人がやめた方がいい、と助言をくれた。けれども市役所の担当者の方たちは、誰も止めなかった。可能性を信じてくれている。

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目の前にある問題を片付けられないのにどうやって社会を変えることができるだろうか。ぼくは社会を変えたい。目の前から、自分の身の回りへと、伝染するように広げていきたいと思っている。そこに現れたカタチが社会に問い掛ける。

それまでの間、ぼくがしていることは無意味だ。存在していない。それがたまに心を締め付ける。ぼくは何をしているんだろう、意味があるのだろうか、と疑念が生まれる。アートとは誰かに頼まれて表現することではなく、心の奥から湧き上がるもので、それは、まるで自分が空想する山を登るようなことだ。

何のためにやるのか。考えるより大きなものは直感が知っている。それが何になるか考えてやるよりも、直感に従えば、結果、自分の想像を超える。Don't think feel it.

北茨城市里山のニーズのない廃墟は、生き延びようとしている。家は生きている。空き家とは、野生の家だ。持ち主の手を離れ自然に還ろうとしている。家にも自由になる瞬間がある。そのとき、まだ家としての役割を果たしたいと家が願うことがある。古いものは、自然から作られているし、ほとんどが手作りだし、そういう意匠の魂が込められているから、声を発することがある。役目を果たし終わる覚悟を決めた家もある。堂々としている。その美しい家もまた、その一部を別の場所へと引き継いで生き続けることもある。

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消えていくもの、残るもの、伝えたいこと、変えたい社会。ぼくは、この境目に杭を打ち込んでいる。時間が経ってもそれが楔になって、何かを思考する踏み台になるような。少しでも。何よりも今日明日と汗をかいて全力で生きる時間が持てることが幸せだ。自分で自分を信じる強さを実感するためにこうやって文章を書く。これが僕にとって表現するチカラになる。

 

昨日は、北茨城市ロータリークラブの取り組みの中で、小学6年生に話をする機会をもらった。50分間。その前のプログラムが夢に向かってだったので、自分がどのように夢を追ってきたのか、生きるとは、どういうことか伝えようと話した。けれど、結果、イメージしたほど子供たちに伝えることができなかった。

自分がやろうとしていることが、矛盾している。お金を稼がなければこの社会では生きていけない。けれども、このまま、経済効率を優先させていけば、確実に人間が生き難い環境になっていく。大人はそれに薄々気づいていながら、何もしようとはしない。大きな取り組みなんかではなく、それぞれ個人が日々の暮らし方をひとつふたつ変えるだけで、子供たちに引き継ぐ未来を変えることができる。

それについて、ストーリーがあって、子供たちにリアリティのあるプログラムにする必要がある。小学生、中学生。自分もこの年齢のときに音楽を好きになった。この年頃の心に届けられる言葉を研ぎ澄ましたい。

またゼロから始める目標をみつけた。こうやって、ずっと最後尾から世界を変えていく。