いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

書くこと、描くこと、想像すること。

書くことは、自分という媒介を通して世界を語ることだ。描くことは、自分を通して、世界を映し出すこと。想像することは、視覚から聴覚、嗅覚、食感、触覚を通して頭の中に対象を抽出することだ。それらは、どれも違う運動をしている。

 

これらの運動をするには、自分という器官をコントロールする必要がある。なぜなら、人間の能力は、繰り返し使い込まなければ、思うようには動かない。訓練してなければ、文章を書こうとしても、すぐに文章は書けない。描こうとしても、すぐには描けない。イメージしようとしてもイメージが湧かない。

 

人間は動物だ。いくら賢くなっても、身体に支配される生き物だ。だから、科学や技術の発達で能力がいくら拡張した気になっても、人間のスイッチは自分で操作するしか手段はない。たぶん、人間のサイボーグ化とかアンドロイドとか、頭脳にチップを埋め込むとかの未来にならない限りに人間自身はアナログに動かすしかない。つまり、わたしたちは、自分という道具を所有している。道具だから、手入れをして使い熟してはじめて、その能力を発揮する。

 

人間はどこまで進化しても自然の一部でしかないのに、目の前の自然を手当たり次第に破壊してきた。その存在を消し去ろうとする。大地を埋め立て、木々を伐採し、海までも埋め立てコンクリートで固めてしまう。この行為は何だろうか。これは、自然の厳しさに対する反抗ではないだろうか。その一方でお金は、快適で安心な生活環境を提供する。自然という親に反抗して、すぐに結果を見せてくれる経済を妄信する。でもそれは井の中の蛙でしなく、やっぱり自然を相手に丁寧に働きかける人がいるから、お金で快適さを買うことができる。人類は自然への反抗期を迎えていると仮定してみることにした。

 

頭の中でとぐろを巻く思考を吐き出すツールが言葉だ。こうして記せば、イメージは具体的なものになる。肝心なのは、言葉は言葉として、それに対してどんな行動をするのか。


最大限に自然を利用した作品を制作したい。そう企んでいる。何ひとつ買わないで制作したい。基本理念は、サバイバルアート。サバイバルとは、自然にあるものを駆使して生き延びる行為。つまり、自然にあるものを駆使して、創作する行為。これがサバイバルアートの目指すところ。

 

ぼくは、縁あって、北茨城市に流れ着いた。ここには陶芸の文化がある。陶芸とは、人類の中でも、かなり原始的な表現行為だった。陶芸は、土と水と火と風によって造形される。まったく人工物を介さなくとも、カタチをつくることができる。聖書によれば、アダムは土塊から作られた。

 

生きるために必要な器。つまり、水を入れる容器は、土から作られた。いや、木が先だろうか。けれども木で器をつくるには、道具が必要だ。どっちだろうか。とにかく世界中の至るところで、陶器は作られている。今では粘土を買って、ガスや電気の窯で焼くけれど、本来はすべて自然を利用した。

 

北茨城市には、菊地夫妻という陶芸家がいる。まったく気取ったところがなく、それが芸術であるなしに関係なく、生きることを表現している。お米や野菜をつくり、お米は販売していて、陶芸家だから、もちろん作品も作っている。その発表の仕方が極まっている。「えんがわ展」は毎年、お米の収穫の後に開催されている。

 

「えんがわ展」は、すべて菊地夫妻が作ったものが展示されている。採れた野菜を調理したもの、収穫したお米のおにぎりが、夫妻が作った器に盛り付けしてある。それが無料で提供される。まずお米が美味しい。ひとつひとつの料理が美しい。それが見事に器に盛り付けされている。食べた人は、心を震わせ、お米や器を購入する。そうやって夫妻の生活は循環している。「買ってください」の一言も発しない。むしろ「どうぞ食べていってください」のもてなしだけ。

 

北大路魯山人が気になって、図書館で読んでみた。とても昭和な芸術家だった。威張っていて、権威的で。菊地夫妻は、真逆の魯山人だ。料亭でもないし、美味を追求しているとも謳わないし。けれども魯山人と共通するところがある。それは食と器が作品であること。魯山人の言葉や態度とは、別の場所からやってくる美しさがある。

 

言葉を費やさなければ、伝わらないことがある。けれども、いくら言葉を費やしても伝わらないことがある。けれども、作品は、ひとことも発さないまま、肝心なことを伝えてくれることがある。

ぼくが、絵を描いて、文章を書き始めたとき、「君はどっちがやりたいんだ? 」と言われた。ぼくは、両方やりたいと答えた。けれども、アートに言葉は必要ないんじゃないのか?と言われた。

 

今だから分かる。「書く」と「描く」は、それぞれ違う運動で、違うことを伝えてくれる。だから、文章を書くことと絵を描くことは、永遠に交わらない。けれども、生まれてくる場所は同じ。それは心のずっと奥。まだ表現として生まれる前。どちらも想像することから始まる。どちらも、習慣になるほどアウトプットする訓練をしなければ出てこない。どちらも言語を習得することに似ている。やりたいことは何でもやった方がいい。熱中したことは、やがて技術として自分の機能のひとつになる。それを「生きるための芸術」と呼んでいる。