いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

2020年の今日まで残り362日

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2019年。年が明けた。どれだけ年を重ねても、やったことがカタチになって、やらなかったことは、何にもならないで消えていく。今年で45歳になる。分かったこと。ほんの小さな日々の積み重ねが、今を明日を未来をつくる。

年末は、妻チフミの実家、諏訪湖のある長野県岡谷市で過ごす。たくさんの食事とお酒と、家族の笑いと感謝に包まれる。ウチの両親は離婚していて、実家がないので、母親がチフミの実家に泊まりに来る。

親がいて、ぼくは生まれた。年末、高校時代の友達に20年以上の久しぶりに会って、数年前に母親を看取った話を聞いた。人生には、いろんなイベントがある。誕生、冠婚葬祭とか、お正月とか、春とか夏とか、死とか。

やりたいことは、はっきりしている。「生きる」という行為をアートとして表現すること。自分を動かさなければ、それは表現できない。

元旦の新聞に「資本主義は現在の繁栄を目指すばかりで、未来へ負債を残すシステムだ」と書いてあった。

2019年は「土」について表現したいと思っている。年末から「大地の五億年ーせめぎあう土と生き物たち(藤井一至)」を読んでいる。そもそも、地球に生物がいるのは、土があるからで、地球以外の惑星には、砂や石はあっても土がない。土は、そもそもコケの遺骸と砂や土が混ざり合ったものだった。それが地球に現れた最初の土。human(人間)の由来はhumus(腐植)、つまり土だそうだ。

土は、生活に必要な多くのものを生産する。1.食料、2.壁、3.食器。つまり、家と食べ物と、食べるために必要な道具を生産する。自然にあるものを利用して、この3つを作り出し実生活で使うことができれば「美しい生活」を表現できる。美しい生活とは、人それぞれにあるものだけれど、ぼくは自然の中で循環する暮らしが美しいと思う。現代の暮らしの中に主張も反発もしないで、そっと溶け込んでいるような。

家は、空き家が美しい。誰も必要としない捨てられた家に暮らす。ニーズのない家屋には、現代の暮らしに最適化されていない、ありのままの自然が息づいている。できれば、新たに何かを買ったりすることなく、生活を組み立てたい。
食べ物は、大地に種を撒けば生えてくる。できるだけ、身の回りにある環境を利用して、食料を手に入れたい。自給自足まで厳格ではなく、顔の見える人が生産した食料と、自分が栽培する食料のバランスのなかで暮らしを楽しんでみたい。

生きために必要なものは、もう既に身の回りにある。

次の本は、芸術家夫婦の暮らしそのものにしたい。また、ここに至るまでの思索の遍歴を芸術論として書きたいとも思っている。イメージしたことはできる。

影響を受けてきたのは、
ヘンリーソローの「森の生活」
宮沢賢治の農民芸術概論、
柳宗悦の民藝、
ウィリアムモリス、
宮本武蔵五輪書
日本中を歩いて生活そのものを記録した民俗学者宮本常一
芸術ではないものを追求した
鶴見俊輔の限界芸術論
に続くような本を書きたい。

もっと参考になる本を読み漁りたいし、芸術ではないものを芸術にしてきた作家たちを知りたい。出版のあてはないけれど「生活芸術原論」として、まとめておけば、何かしらの道しるべになる。

作品を制作して売るのは、この社会の中で生きていくための手段であって、目的ではない。目的は、生活と芸術の一致。人間としての美しさを追求してみたい。比較や否定ではなく。貨幣価値で計れないモノコトを掘り起こして、未来に希望を循環させるようなアートのカタチを提示してみたい。たぶん、それは土と取り組むようなやり方にヒントがあると思っている。

2019年も、その先も、日々の暮らしから、水に潜っては息継ぎをするように、まだできもしないことを空想しては、吐き出して自分の道を歩いこう。こういう環境を与えてくれている、ぼくら夫婦の周りの人や自然に感謝を忘れずに、2020年の今日まで残り362日を過ごしたい。