やっと夏が来たと思ったらもうお盆。今年は夏が来るのが遅かった。梅雨が長かった。7月はずっと雲っていた。それはそれで曇った空の絵を描けた。日常にあるものを切り取って作品にしている。作品には絵のように売れるものもあるし、売れないものもある。
連休は同じ町に暮らす友達家族が、キャンプに来た。キャンプと言ってもキャンプ場ではなくて、耕作放棄地を整備してキャンプした。友達の古川さんは、生活を芸術にするということを理解してくれ、いろんなカタチで協力してくれる。荒地を整備してキャンプすることも作品のひとつだ。
3年前から現在に至るまでを「生きるための芸術」シリーズの3冊目として書いている。目の前の出来事を文章に書くことは現実をつくる活動になる。文章を書きながら次の展開を読むことになる。目次のように次に必要な物語が見えてくる。それをすることで、自分が作品をつくっているうちに作品につくられていく、という反転現象に飲み込まれていく。それは現実と空想がひっくり返って一致していく。
生きるための芸術3
「空き家・古民家・廃墟・荒地 生活芸術編」
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.生活芸術概論
Ⅲ.生きる つくる 働く
1.ペットボトルの筏
2.桃源郷へ
3.新しい地図
4.アートが生まれる場所
5.地域芸術の仕事
6.ここに在るモノ
7.生活芸術商売
8.廃墟の結晶/D-HOUSE
9.荒地と庭
10.景色をつくる
11.井戸茶碗
今は「井戸茶碗」の章を書くために制作している。
廃墟を改修して家をつくった。水がないので井戸を掘るか、100m離れた空き家の井戸から配管するかの二択だった。100mツルハシで掘って、塩ビパイプを埋めて水が出るようになった。
その頃、友達が「井戸を掘ろうよ」と言い出した。住宅や車を販売しているノブちゃんが、空いた時間、休みの日に通って井戸を掘るようになった。川がすぐ近くにあるせいか石が多く、ネットで紹介されている簡単なやり方では太刀打ちできず、ノブちゃんはコツコツとスコップで穴を掘った。2mほどで水が染み出してきた。水が出た。ついに水を自然から得た。運がよかった。たった2mで出たのだから。自分がアシスタントでノブちゃんが掘った。ところが巨大な岩が出てそれ以上掘り進めるのは難しくなった。その辺りから粘土が出てくるようになった。
ずっと粘土を探していた。生きるための芸術とは、自然のエレメントを駆使して生活に必要なモノをつくる技術のことだ、と考えている。だから、土と水と火と風で制作する陶芸こそ、究極の生きるための芸術だと思っていた。何も買わないで、そこにあるもので作品をつくるとは真空のような、ないところからモノを生み出す必殺技にも思える。
ぼくが暮らす北茨城市では五浦天心焼という陶芸を伝統工芸として保存している。五浦天心焼とは、この地域で採取できる蛙目粘土(がいろめねんど)を使用した陶芸のことを指す。江戸時代には、窯がいくつかあって、そのような陶芸があったと文書から分かっている。けれども、五浦天心焼という当時の品は残っていない。だから、いろいろな作家たちが、それぞれの陶芸を追求して五浦天心焼をカタチにしている。おかげで、北茨城に暮らすようになって陶芸を教えてもらう機会が何度かあった。
陶芸をするにも、粘土と釉薬を買ってきて電気釜で焼くという最も現代的なやり方がある一方で、その真逆には、粘土を採取して釉薬を自然のモノからつくり、土で窯をつくって、木で火を熾して焼くという原始的なやり方がある。
アフリカで建てた家と、炭窯のつくり方が同じだったように原始的な陶芸も、その同じラインに並んでいる。自然のエレメントを駆使して生きるために必要なモノをつくるシリーズだ。だからずっと粘土を探して、粘っている土をみつけては器にしてみた。けれども、カタチを成形できる粘土には遭遇しなかった。(バリ島で友達がプールをつくったときに出た粘土は野焼きまでやれた)井戸から粘土が出てきてついに成形するに充分な粘土に出会った。
出土した粘土には小石が混ざっているから、網で濾して石を取り除いて、それを成形する。現在、器ひとつと猫のオブジェ3つを乾燥させている。ほかにも器をつくったけれど乾燥中に割れてしまった。これが今現在のところ。
井戸茶碗とは、16世紀に千利休が珍品を求めるうちに「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」「ゆがミ茶碗」などを愛用することになり、その趣味によって当時の韓国で作られていた日用雑器の茶碗が伝説の茶碗に仕立て上げられた。
井戸茶碗の名前の由来には諸説あって、自分は、井戸から出てきた粘土で器をつくったから「井戸茶碗」になったと閃いたけれど、正解は分からない。名前の由来に一致しなくても、水が必要だから井戸を掘って、その水を飲むための器も、その井戸から出てきた粘土を使って焼いた。という展開はあっただろうと想像する。
その由来を調べていたら「井戸茶碗」という古典落語の名作があった。
あるとき、屑屋の清兵衛が屑の売り買いをしながら町を歩いていると、みすぼらしいけれども器量のよい娘に声を掛けられた。ついていくと路地裏の長屋で娘と貧乏暮らしをする千代田卜斎が仏像を買ってほしいと言う。目利きは得意ではないと断る清兵衛の態度を気に入って安くてもいいから買ってくれと、しばしの問答の結果、200文で買って、それ以上で売れたら儲けを折半することになった。
清兵衛がカゴに仏像を入れて歩いていると、高木佐久左衛門が籠の中の仏像に気づいて、家へ招いた。さらに仏像が腹籠り(仏像の中に更に小さな仏像がある縁起物)だと知って、これを気に入り300文で買い上げた。清兵衛が帰った後、高木が仏像を一生懸命磨いていると、台座の下の紙が破れ、中から50両もの小判が出てきた。ところが高木は買ったのは仏像だから50両は自分のものではない、と持ち主に返却するために清兵衛を探すことになった。
通りで高木が屑屋を探していると噂になり、悪い仏像を売られたからだと噂が立って、清兵衛は恐ろしくなって屑屋の掛け声を潜めて通りを歩いた。ある日、うっかり掛け声を出して高木に掴まり話を聞くと50両を返したいとのことだった。快く50両を預かり千代田の家に持っていくと、気が付かなかったのだからすでにそれは自分のものではないと受け取りを拒否した。清兵衛がしつこく迫るとついには怒り出す始末。仕方なく持って帰るも高木も受け取らない。仲介に入った長屋の家主が千代田に20両、高木に20両、清兵衛に10両でと提案した。ところが千代田はそれでも拒否するので、お金を受け取る代わりに品物を高木に渡したらどうかという話になって、千代田は父親の形見だった小汚い茶碗を譲って、騒ぎは収まった。
後日、この騒動が領主の耳に入り、この話を聞きたいと高木は呼び出されることになりその際に茶碗も見たいという。それではということで高木は小汚い茶碗を綺麗に磨いて持参した。領主はその茶碗が名品の井戸茶碗だと気づいて300両で買い上げた。そんな大金を千代田から貰った茶碗で得たのだから返すのが義理だと、清兵衛を呼び出した。けれどもやっぱり千代田はそれを断った。清兵衛は押し問答にならないように、千代田に前回のように何か譲れる品がないか相談する。思案した二人は娘を高木に嫁がせ支度金にすることにした。
清兵衛からこの話を聞いた高木はこの提案を快く受けた。清兵衛がきっと娘も一生懸命に磨けば、見違えるようになるだろう、と話すと高木は言った。「また磨いて小判でも出たらいけない」
生活の芸術という追求がどこに着地するのか分からないけれど、友達から送られてきたメッセージを読んでこれを続けることだと納得した。
我々は自然の恵みによって
人間たる以上誰でも芸術家であることを許されている。
芸術家といっても、画家とか彫刻家、音楽家、詩人
という特殊な芸術家を言うのではない。
「生きることの芸術家」なのである。
鈴木大拙