いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

芸術家になって展示すること。

ギャラリーから連絡があった。9月に個展をやらないか、という話しだった。こっちでは老舗のいわき画廊だ。

ぼくは茨城県北茨城市に暮らしていて、4年前に北茨城市が芸術によるまちづくりをするために芸術家を募集して、ぼくら夫婦は東京板橋区から引っ越して、このまちに暮らすことになった。

芸術で食っていく、と40歳を前に退職して独立起業するつもりだったけれど、そのやり方は実のところよく分かっていなかった。見えていたのは、伝説と化した芸術家たちの姿だけだった。もしくは有名ギャラリーに所属して絵を売っていく、てっぺんのやり方だけだった。つまり途方もない彼方を目指して芸術家の道に踏み出した。

5年間は海外を旅したり、家賃をゼロ円にするため日本の空き家を転々とした。その後、北茨城市に暮らすと、すぐにこのまちで活動している芸術家たちに出会った。

60代から70代、陶芸家、油絵、日本画、それぞれ表現形態は違うけれど、先輩たちは確かに芸術を仕事に生活していた。

そこには有名ではなくても芸術を仕事に生きるやり方があった。大きな成功をしなくても、好きなことを仕事にする方法がここにあった。

北茨城市の伝統工芸、五浦天心焼の普及と保存の活動をしながら、自らの作品を制作販売し、農家としてお米と野菜をつくり、縁側展と題して、自ら制作した陶器に自ら作ったお米と野菜の料理を振る舞う菊地夫妻の展示に、生活と芸術を一致させた究極のカタチを見た。その展示は食事は無料でその料理に使う陶器とお米を販売していた。

日本画家の小板橋さんは、サーファーから画家に転身した。きっかけが、いわき画廊の忠平さんだった。

忠平さんは、北茨城市の出身で何かやりたいな、と考えたときギャラリーをやることにした。そんなときに、東京のギャラリーの知り合いから中国のアーティストが展示する場所を探していると相談を受けて、作品を観に行った。火薬を使った作品に衝撃を受けた。すぐに福島で良ければ一緒に展示をつくろうと誘った。喜んで福島に来て展示をしたのが、今では世界のスター作家となった蔡國強(さいこっきょう)だった。

小板橋さんも芸術家になりたいと忠平さんに相談すると、山のなかに籠って仙人のように絵描きに没頭しなきゃなれないよ、と言われ、電気もない山の中に引っ越して、そこで絵を描きはじめた。そして数年修行を重ねて、ついに画家になった。いわき画廊でデビューした。それから何十年も作家を続けている。SNSもやってないし営業活動もしてない。それでも食っていけている。

何より小板橋さんの風景画は美しい。きっと誰が観てもそう感じるほど。そして優しい。絵のなかに、余計なものを入れたくない。ただ純粋でありたい。そう話してくれたことがある。

イタリアの風景画を描く毛利元郎さんも、北茨城市に暮らす作家で、奥さんが額を制作する夫婦芸術家という側面もある。年間幾つもの展示をやって作品を販売している。展示会場にも足を運んで接客もする。常にコンスタントに制作する姿はアスリートだ。走り続ける作家だ。

ぼくがいわき画廊の忠平さんと知り合うきっかけになったのが陶芸家の真木孝成さん。陶芸家として一線を走っていたが、新天地を求めて南米のベルリーズに移住する。そこのジャングルで生活を開拓していたが諸事情により帰国。北茨城市の山村の鄙びた小屋暮らしをしている。侘び寂びの極地とも言える仙人のような佇まい。しかし本人は全然そんなことはない自由人だ。ぼくのまったく独学の土器づくりにアドバイスをしてくれる師匠でもある。

こうして北茨城市に来てから作家として生きていくやり方を学んだ。そのなかで、いわき画廊がどれだけの作家を育ててきたか、その話を聞くたびにいつかここで展示をやりたいと思っていた。忠平さんは、この数年いつか個展をやろうとは言ってくれていた。しかし「いつか」とはいつなのか?

これまでの自分だったら「作品を持って展示をやらせてください」と交渉しに行った。けれどもいわき画廊は、そういうやり方は通用しない感じがした。だからその時が来るのを待っていた。

ちょうど先週、毛利さんが2年に一度のいわき画廊で個展をやっていて、そのときに忠平さんにぼくら夫婦の新しい作品の画像を見せてくれたらしく、それをきっかけに忠平さんから電話が来たという経緯だった。

北茨城市に来て、ここに紹介した先輩作家たちの作品を少なくともひとつずつは購入したいと妻と話していた。なぜなら作品を作ることと買うことは表裏一体だから。自分の作品に10万円の値段をつけるなら、10万円の絵を買ったことがなければ嘘になる。絵を買うという行為は、商品を消費することとは違う。絵は費やされて消えることはない。むしろ絵は成長していく。鑑賞されることで意味を豊穣にする。これは作品を買った人にしか分からない。それを知らないからアートだからという理由で何十万円という値段をつけてしまう。アートだから売れるんじゃない。その作品にそれだけの価値があるから売れる。

先週の毛利さんの個展で、毛利さんの作品を買って、ついに北茨城の先輩作家の作品をコンプリートできた。そしてぼくたち夫婦も、いわき画廊の物語になる。何より嬉しいのは、はじめてギャラリーという場所に認められたことだ。

ぼくは40歳を前にやっと本気で芸術活動をはじめた。それ以前は準備期間だったのだと思う。もしくは勇気が足りなくて飛び込むことができなくて、いつまでも準備運動をしているようだった。物事は捉え方次第で、だからかえって自分のなかの芸術に対する土壌ができたとも言える。しかし、そのほとんどは勘違いの先走りで、だから臆面もなく「生きるための芸術」とか「生活芸術」と言えてしまう。

けれどもここまで来て思うのは、芸術からはみ出して、芸術以外のモノのなかに芸術を見出し、それを芸術という枠のなかに収めてこそ、新しい眼差しを獲得できる。

展示するということは、ハコに絵を並べるだけの行為じゃない。ましてや販売スペースでもない。表面的にはその2つなのだけど、展示するということは、空間を自分の芸術で満たして、販売するとか、絵を並べるといった行為を見えなくすることだ。作家自身の芸術性が溢れて爆発した空間をつくり出すことだ。

毛利さんの展示で話をしていたとき、別の作家さんにどんな作品を作るのかと質問され「主には風景を描きます」と答えると毛利さんが詳細を付け加えてくれた。別の作家さんは「ほう。その絵には明るい空気があるんだね」と言った。それから「毛利さんの柘榴は画面いっぱいに描くから爆発しそうだ」とか「柔らかいものは柔らかく描けているかどうかだよ、絵には固さ柔らかさがあるからな」と絵描きならではの言語に出会った。

展示とは、作品をきっかけにこういうコミュニケーションが生まれ、そこに新しい思考や発見が鑑賞者に与えられる場でもある。

簡単に例えるなら、展示は芸術を演じるコントだ。どこまで芸術以外のものを芸術として振る舞わせることができるのか。その臨界点を提示してみせたい。ぼくの場合は、生活と芸術、この境界線を浮き彫りにしたい。

あちこちにやりたいことが飛び散るぼくを見て妻が「ひとつずつコツコツと完成させていこう」と言った。

今朝目を覚まして、お茶摘みに行くと妻に話したら「じゃあ、展示の来場者に紅茶を振舞ったら」と言われた。

お茶を摘みながら「来場者に紅茶を振る舞うなら、どれだけのお茶が必要になるんだろうか」「身の回りにあるモノで生きることを表現するには紅茶は最高のもてなしだな」と考えた。それは茶道にも通じるし、岡倉天心にも言及できる。

9月の個展に向けてひとつ目の作品は「手摘みの自家製紅茶」になった。

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