いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

"no expectation"(期待しない)

"no expectation"(期待しない)が、最近、我が家の合言葉になっている。インスタグラムにコラージュの絵を投稿したら、海外のアート系のウェブサイトからコメントが入った。

「君の絵が気に入った。わたしたちのサイトで紹介させてくれ。詳しくは、プロフィールをチェックしてくれ」

サイトを見ると、アートを紹介、販売するサイトで年に4回、紙の媒体もリリースしている。5年前だったら、ぼくは興奮と喜びで、今夜には祝杯をあげただろう。でも、いまは、期待しない。駅のホームで電車が通過するのを眺めるようにして、その期待には乗らない。

 

喜びや興奮の基準をどこに置くかによって、生活のリズムやパターンを調整できる。まだ起きてもいないことに、期待したり、一喜一憂するよりも、確実に目の前に起きている出来事に喜びや興奮を見出した方がずっと現実的で、着実に生活をつくっていける。「捕らぬ狸の皮算用」をしないこと。むかしの日本人の教えは、現代では、ネイティブ・アメリカンの教えのように心に刺さる。

 

たまにこんな仕事のオファーがある。

「某大手代理店と、大きなアートのプロジェクトを進めていて、予算は1億円ある。来年から、再来年に、つまりオリンピックに合わせ計画されるんだけど、石渡さんもアートで企画を出してもらえませんか。」

言葉だけ拾って並べてみると、何やらスゴイんだぞ、という雰囲気だけは伝わってくる。詳細を聞いて数日間から数週間、企画をまとめて、送ると

「いいですね!これでクライアントに投げみます!」

で結局、何も起こらない。けれどもぼくはアホなので、何度もこの餌に釣られて、期待を膨らました。

「おお!何百万円かは稼げるかも。また海外に行けるかも!」

期待と夢は膨らんで、日々の積み重ねを横に置いて、せっせと期待を追ってしまう。けれども、結局のところ、これは餌だ。

そこじゃない。大切なのは。大きなプロジェクトに乗っかることでもないし、大金を手に入れることでもない。大切なのは、何をしたいのか。なぜしたいのか。

ぼくは、妻のチフミと絵を描いて、その絵は、日々の小さな積み重ねのなかで、研ぎ澄まされた表現で、何をして何をしないのか、その生活のなかの選択のひとつひとつが絵に反映されていて、その生き方は、社会の循環のなかで理想をつくっていて、ぼくたち夫婦の表現や活動が、誰かの心を動かしたとき、ぼくたちのアートに価値が生まれ、鑑賞者の心にも何かしらの感動が生まれる。動いた心は日々の暮らしを変えていく。そうやって、社会のカタチが個人の選択によって変わっていく。

ミミズが大地を耕して、少しづつ数ミリずつ大地を押し上げているとダーウィンが発見したことのように、小さな積み重ねが大きなことを動かしている。大きいことは小さなことが動かしている。全体と部分がある。小さいながらにできることを模索していくとき、何が必要で何が不要になるのか見えてくる。社会は拡大しようとするけれど、その流れには乗らずに、小さなライフスタイルをつくっていく。大きくなることに対して、小さくなっていけば、可能性はどんどん大きくなっていく。社会が100なら100を目指すのではなく、社会が100に対して0.1でいられるなら、解像度が変わってくる。

 

昨日、知り合いの人がアトリエを尋ねてきて

「実はシーカヤックが、会社の倉庫に眠っているのが分かって、もしよかったら石渡さん乗りませんか。ウチの会社のプロモーションにもなるので」

舟が好きなぼくには魅力的なオファー。で話を聞いてみると、シーカヤックは中国の倉庫にあるらしい。日本に届くまで時間がかかるそうだ。

そう。ノー・エクスペクテイション(期待しない)だ。

絵を日々つくる。無限にある色とカタチの組み合わせのなかから、心が動く瞬間をみつける。その瞬間を永遠に封じ込める。それは過去でも未来でもなく、期待も後悔もない、只今、この瞬間。

f:id:norioishiwata:20180630101035j:plain

つくり続ける。

One of thesedays 85
夫婦芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/