いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日本には見えない美しさを愛でる感覚があった。だから日本の職人の仕事は美しい。

先週末に開催した土壁のワークショップは、いろいろ盛り上がって、個性的な壁になり過ぎて、、。さて、その壁をどうしようか改めて観察したところ、浮き上がっている箇所もあるのでやり直すことにした。

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今日は雨だったので桶に溜まった雨水を混ぜるうちに、蘇ってきた感覚、ザンビアの泥の家づくり。

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直したい箇所の土を落として、浮いているところは剥がして、その落とした材料を集めて、また練り直してみた。

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職人さんは、上品に土を塗っていたが、ザンビアでは泥を投げる。すると土がへばり付く。その通りにやると調子がいい。

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そんな具合にザンビアスタイルと日本の伝統工法をミックスして、まあ納得の土壁が完成した。

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今日やってみて気が付いたことがある。日本人の仕事は、丁寧だし作法とルールに厳しい。「なぜ?」という疑問を挟む余地もなく「そうなっているから従え」という強制力がある。職人さんの仕事は、それだから美しい。その一方で、ザンビアのやり方は原始的で仕上がればいい。

よく日本人の暮らしにはアートがないと言われたりするが、そんな表面的なモノではなく、暮らしの道具のひとつひとつが芸術的なクオリティーだった。職人さんの仕事のやり方はまさにそれ。土壁だって、鏝の跡を残してはいけない。その鏝だって何種類もあって、焼き方が違ったり、それもまた職人業で仕上げられている。仕事も美しければ、道具も美しければ、仕上がりも美しい。

さらに、日本の美的感覚は表面的なモノではない。何なら見えない方が美しい。それは、イスラム文化の美しさに通底する。

そうやって築80年の長屋を見渡してみれば、至るところが美しい。つまり、日本人の美は、まさに生活芸術だった。形骸化する前の茶道は、きっとこんな精神だったのかもしれない。歴史的に分析すれば、ザンビアの方が原始的で原点に近く誰でもやれる方法論がある。左官職人の土壁は真似しようとしてもすぐには出来ない。茶道のような形式美がある。

物事をわきまえるとは、このことかもしれない。目的に合ったやり方を選択することだ。方法はなんだっていい。人間の目的は生きることなんだから。誰かに価値を与えられたり判断されるより、とにかくやってみたらいい。作法やルールよりも、原始的な方が生き延びる技術になる。それにしても日本の職人の仕事には、その道に通じる者しか体現できない美しさがある。

 

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/