していることを伝える重要性は、まだそれが果たせないうちには、単なる妄想や狂気でしかない。それをメモなり絵なり言葉なり、何かのカタチにしたとき現実のものとなる。しかし、それが現れたとしても、ほかの誰かに伝わらなければ存在しないと同じことになってしまう。伝えることには、他者の存在が欠かせない。この文章もここに書かずにいれば、誰も知ることもない。わたし自身も知らなかったことになる。
例えば本人が亡くなってから世に出た原稿や作品というものも少なくない。あるイメージが、ほかの誰かに伝わるとき、それが重なって地層となるとき、社会に何らかの痕跡を残す。それは傷ではなく、読み解くことができる記号として他者に開かれる。その解放は、重なる量によってチカラの大きさが変わる。情報が大量に溢れるインターネット以降の現代社会では、中身や質よりも、スピードや量や刺激の強さばかりに反応して、世の中もスピードを上げて混沌していくように見える。
ではいつ頃まで遡れば混乱していなかった時代に辿り着くのか。きっと遥か太古だったとしても、やっぱり混乱していたのだ。そもそも自然が混沌だった。それを整理して読み解こうとしたのが神話だった、と想像することもできる。現在にあって太古にもあった物事は、例えば、貨幣とか言語、宗教、芸術、これらには何千年も人間と共に歩んできた足跡が残っている。
なかったら死んでしまうもの。命を永らえるもの。空気、水、食料、寒さをしのぐもの。モノや商品もサービスも情報も溢れている現代では、とにかくお金に換えないと生きていけない。けれども、水は地球が与えてくれる。大地に種を蒔けば芽が出る。海には魚がいる。塩がある。木を燃やせば火が熾きる。人間が生きるためにしてきたこと、それを生活と呼ぶ。これも太古から現代まで、ずっと人間がしてきたことだ。ほんらいの生活は、商品やサービスではなかった。
ところが生きるためにしていることが商品やサービスに変わってしまい、わたしたちは、お金がなければ、それらを手に入れられなくなってきている。蛇口を回せば出てくる水さえ、水道という管理されたインフラを通じたサービスだ。土地は所有物で、植物を育てるよりマンションにした方が儲かる。それだけの理由でビルが増えていく。火はガス管に接続され、危険だからとオール電化になっていく。電気は原子力発電。原発の廃棄物の処理方法はまだない。大地に埋めている。壊れた原発の処理水は安全ですと、海に流している。人間が作ったものはやがて壊れる。わたしたちが便利と呼んでいる現代生活は、簡単に崩壊するシステムで成り立っている。
わたしたちは、間違った生活を支えるために働いてしまっている。ひとりでも多く、この過ちに気がついて、社会と未来を変えるために、それぞれが理想の生活を作ってほしいと願う。そのためにわたしは生活を作ってきた。完璧ではないし、矛盾や欠点だらけだけど、それでも、生活を取り戻しつつある。水は井戸だ。土地は放棄されている。そこで妻が野菜を育てている。冬は薪ストーブで過ごす。冬は炭を焼いている。これは何万パターンある生活スタイルの可能性のひとつに過ぎない。もっともっとありえるだろう。
生活とは社会が侵食できない個人と自然の関係のなかに広がっていた。その領域もやはり整えなければ荒れていく。整えるとは自らが調整する機能を持つこと。荒れていくと不健康になり病になる。ところがこの病もビジネス、サービスや商品を生み出している。ここもまた間違った循環をしている。病と死も消費されている。
生きるとは何か。時間だ。ひとりひとりが1日24時間平等に与えられている。生まれてから死ぬまで。終わりは分からない。だとして、その与えらた時間を何に使う? ほんらい暇なんて時間はありえない。暇とは誰からも要求されることがない純粋な生の時間。天然の時間。それを捨てる? ところがインターネットが発達して、スマートフォンのおかげで、わたしたちの手元にあらゆる商品やサービスが集約され、手元を通じて、わたしたちの時間を奪う競争が繰り広げられている。もう戦争状態だ。ほんとうに必要、つまり生きるために必要でもない情報を与えられ、ついつい必要もないものを買ってしまう。なぜか。企業は、必要ではないものをいかに消費させるか、という戦略に突入している。時間を奪ったもの勝ちの経済社会になっている。
どうやっても社会に飲み込まれていく。だからこそ抵抗する。抵抗は摩擦を起こす。反抗ではない。ノーと叫ぶのでもない。違和感に対して、何ならイエスなのか、その選択肢をみつける。摩擦はエネルギーだ。それが文化になる。わたしたちは自分の主権者であり奴隷でもある。教育は従属させる。社会はわたしの隅々まで消費で埋めようとする。わたしを独立させない。それでも流されないで抵抗する。勝ち負けで言えば、わたし自身は負け続けている。といっても、それは我慢や苦痛ではなく快楽である。手元に残るのは生きる喜び。自分が持つ時間を納得できる使い方に投資する。抵抗しながら生活を編集することを、生活芸術と呼んでいる。画家のゴーギャンは「我々は何者か、どこから来て、どこへ行くのか」と作品を遺した。そのタイトルは永遠に問い続ける。
どこから来て、どこへ行くのか。その答えが生活をつくることだ。始まりも終わりも、流れを把握できるものごとで生活をつくるとき、わたしたちは、やっと循環できる。お金は、自由に生きるだけあれば充分で、もっともっとの必要はなくて、それ以上は遊びや愛や喜びが運んでくれる。自然を利用すれば生活は誰にも奪われないし壊れない。水、土、火、風、海、太陽は、太古からずっと命を育んできた。今も。それらが暴れたり機能しないときを天災と呼ぶ。1日は過ぎていく。時間は戻らない。自分の時間を生きて、社会に対して違和感のない活動をする、その一歩ずつのなかで、理想や未来のために、つまりあなたが、自分の時間を切り売りするのをやめて、地球の生き物になるとき、そのひとりひとりのひとつひとつが重なって地層となるとき、わたしたちは、どこ行くのか、その先に新しい物語が現れる。それが未来になる。