いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

混沌に目と鼻を描いたら死ぬのです、

新作の構想は、スチームサウナやヨモギ蒸しなどの草を蒸して浴びる何かだ。発想のきっかけは2つある。ひとつは妻の母がヨモギ蒸しの会社にヨモギやたんぽぽ、ホウノハ、山葡萄などの野草を採取して納品する活動していること。雑草や野草を採取して干して持ち込むと買い取ってくれる。妻の母たちはその売り上げを孤児院に寄付している。素晴らし過ぎて影響を受けた。もうひとつは妻の友達が会社を辞めて旅する茶屋を始めたことで、いろんなお茶にできる草を教えもらっている。

もうひとつあった。身の回りのモノを使って作品をつくる、この延長線上に茶室のような小屋のイメージがあって、そこでできる体験、作法に倣ってお茶を淹れることに面白さはないし、カタチは定まっていないけど、雑草や野草をスチームサウナする小屋みたいなものを計画している。

実家に帰った妻が母に計画を報告するとこう言った。

「ちょうどそのことで話したかったのよ。わたしたちがいつものように草を納品に行くと、そこの人が小澤さん(妻の母)はワクチンを7回接種したでしょ?7回接種すると身体から悪い物質が出て悪影響を及ぼします。実際に身体から悪臭がします。申し訳ありませんが次回から小澤さんはハズレてくれださい、って言われたの。信じられる?」

驚いた驚いた。妻の母は思い出して涙を目に溜めている。妻の母たちは100万円を目標にして頑張っている。いま80万円だからもう少しだ、頑張ろう、と励まし合ったそうだ。

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ミッシェル・フーコーにすっかりハマっている。筑摩書房から刊行されたコレージュドフランス講義集全13巻は、講義なので読みやすく、彼の思想の軌跡を目の前に切り拓いてくれる。にも関わらずほとんどが絶版で数万円の値段がついている。

読んでいるのは3巻「処罰社会」。社会が人を処罰するのは、排除の概念だという。非行者や民族、宗教、性におけるマイノリティー、精神病患者、生産や消費のネットワークのそとに落ちてしまった個人、こうして特定することで、一体何がそれらを区別しようとするのか、フーコーは明らかにしようとしている。排除されたとしても、排除されている時点で社会の枠組みのなかにあって、その外側にはいない、と教えてくれる。つまり社会という概念は外を認めないシステムだということ。外だと認定した途端に異端としてシステムに取り込む。囲い込む。それが監獄として機能している。監獄は時間を支配する。それは産業革命以降の労働のカタチと酷似する。

例えば「働かない」というただそれだけのことに対する世間の厳しい態度。あの人は何をしているの?と無意識のうちに所属を確認する。働いてない=会社に属していない、としたら一体何者なのか、まるでそれが犯罪かのように言うだろう。

「あの人は働いていないのよ!」

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貯めるな。放出しろ。そんなイメージが湧いた。ご飯を食べ過ぎると身体が重くなる。糞をしないのは不健康。

朝昼晩3食の習慣は何に由来しているのか。調べれば江戸の中期から庶民は3食になる。理由は、江戸に職人が集まって彼らは労働者だから3食必要だった説。それから菜種油の値段が下がって夜も起きているようになった説があった。

イスラム圏にはラマダンがある。約一カ月間、日の出から日没まで飲み食いをしない習慣。ひとつの理由として貧しい人を理解するためという。素晴らしい。一日だけ断食してみた。以来、身体のなかに空間ができた。空いているのがデフォルト。埋まったら苦しいと感じる。

絵を描くことや彫刻すること。カタチを取り出すこと。アウトプット。イメージの放出。イメージはどこからやってくるのか。やってくるのはまわりの環境から。見たもの、聞いたもの、ことばにしたもの、感じたもの、記憶。ぼくの表現は二次情報からはやってこなくなった。回路は遮断された。以前は雑誌のコラージュだったから広告や欲望が源泉だった。いまは自然からやってくる。自然からのインスピレーションは盗作にならない。なぜなら、それは生きているから。常に移り変わるから。

流れを感じる。ぼくはパイプみたいだ。空洞の管。何を受け取り、何を流すのか。その意味で、日々身を置く環境に影響を受けている。夜が暗いとか、火を眺めるとか、木々の騒めき。雨、風、太陽。

毎日電車に乗れば、電車の環境に影響を受ける。毎日病院に行けば病院に影響を受ける。会社に行けば会社に影響を受ける。森に行けば森に影響を受ける。

だからぼくは里山に暮らしている。影響を受けるものを選択する。日々生きる環境は大地だ。自然のなかで何かを感じるとき、流れてくる社会の情報は無効になる。リセットされる。なぜならここは社会の端であり、踏み出せば社会の外。自然と社会の境目だから。フーコーは指摘しなかったけど社会の外は自然のなかにある。はじめて足を踏み入れる森は裸になっている。エロス。けれども誰かが見た瞬間、森は裸ではなくなる。秩序を持つ。二重スリット実験がここにある。静かに狂う無秩序が森の真実。

常識や社会のルールとか、街の喧騒、そういうことがどうでもよくなる、そんな体験ができる小屋を作りたい。たぶん、それはアートではないし、お金は循環するもので、誰もいない森のなか裸になって、ひとり体験するもの。人間が野生に戻るための装置。これ以上人間が狂っていくのは息苦しい。自分も含めて。