いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

2024年はじまりと同時に書いたこと

あけましておめでとう2024。元旦は長野県諏訪地方の妻の実家でお酒を飲んでご馳走を食べてカラオケをしていた。その夜、テレビでは北陸の震災のニュースが流れた。震度7地震が石川県を中心に襲った。しかしテレビの向こうの出来事なのだ。

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ガザをイスラエルが爆破している。ウクライナとロシアが戦争をしている。誰もがそれを知っている。しかしそれを止めることは誰にもできない。

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ぼくは家族が嫌いだ。誤解を招きそうだ。言い方を変えよう。制度としての家族が苦手だ。父と母と子供の家庭。そのむかしなら祖父母も暮らす。その小さな集団に独自の価値観がある。子供は成長して親と違う価値観を身につけていく。ぼくは子供時代遊ぶのが大好きだった。お正月を一緒に過ごす甥っ子も勉強より遊びが好きだと言う。すごくその気持ちが分かる。けれども、妻の親戚一同誰も遊びが仕事になるとは思わない。ぼくが高学歴だったら説得できたかもしれない。したがってぼくには何も言う権利がない。でも彼が本気なら、いつでもぼくは彼と遊ぶ準備はある。ぼくは本気で遊んでいる。それが仕事で労働で制作で生活でアートだ。

テレビの向こうで被災者がいるのに、酒を飲んでご馳走を余らせてカラオケをしているのは悪いことか。年末に首相がすき焼きを食べたと非難されていた。年末は妻の実家で自分の母も泊まりに来て、すき焼きをみんなで食べた。すき焼きを食べることは悪いことだろうか。

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すべてのことを貫いた真実や正直さや誠実さを知りたい。それに向かって生きたい。けれどもひとつだけを正解とする正義や真実は失われた。何かを「する」とき選択をする。何百とある可能性のひとつを選択する。それは球体状に影響する。木が地中に根を張り枝を広げるように。

ぼくはカラオケが嫌いだ。誰かが作った歌を歌ってそれが上手いとか下手とか、すごく無意味だし、誰かが懸命に作った詩(コトバ)を消費するのも気に入らない。だからぼくは自分の歌を作る。自分の歌い方で歌う。コトバが生きる場面で。

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みんなお正月を楽しみにしている。ごめんなさい。ぼくには日常の方が楽しい。フェスに行くとかパーティーだとか、そういうことよりもぼくは日常が好きだ。休日より平日。けれどもまだ未完成。ぼくのしている今日がガザの誰かやイスラエルの誰かにメッセージするほど貫かれていない。

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だからと言ってお正月を楽しむ家族や誰かを批判しない。ぼくの考えはぼくのもの。そっと根を張って心のなか、このブログにだけ閉じておく。メッセージは作品が発するもの。

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2024年。何処へ向かうのか。生活を芸術にする。この10年のテーマだ。まだ途中。生きるための芸術を伝え続ける。いつからぼくらの「生きる」は奪われているのか。誰に?奪われているとさえ感じない人も多いだろう。


年末から読書が楽しい。いま手元にあるのは「森の日本史」黒瀧秀久、「地に呪われたる者」フランツ・ファノン、「処罰社会」ミッシェル・フーコー、「子供の文化人類学」原ひろ子。

フーコーは監獄という形態が社会を管理するシステムの原型のひとつだという。それは労働が自然に働きかけて生きるための糧を手に入れる時代から、産業革命によって工場や生産への従事に変わって、時間が人を拘束していると指摘する。監獄と勤務は同じではないにしろ、管理するシステムとしては同じ手法にある。

フランツ・ファノンは、殖民地主義の異常さ残酷さについて告発する。ファノンは優秀でほとんど白人のように振る舞っていた。被植民者が優秀であるとは、支配者側になること。ところが次第に白人のようになろうとするほど、黒人を苦しめるだけのこの制度に違和感を持つようになる。殖民地主義とは、別の土地の資源を、そこに暮らす人々の人生そのものも奪い、モノのように扱うこと。

ぼくは10代の頃から労働する理由が分からなかった。働きなさいと言われ、お金を稼ぎなさいと言われ、就職しなさいと言われた。誰も理由を教えてくれなかった。だから一年だけ就職して辞めた。退職の意思を伝えると部長は言った。

「この会社にいれば普通の人よりいい家に暮らして、いい車に乗れるんだぞ。それを捨てるのか」と言われた。

「そんなものいらない」と思った。

会社で働くとき、朝決まった時間に出勤して、決まった休み時間を過ごして、決まった時間に退社する。ちょっと今日は気分が違うからとかは許されない。一体何が許さないのだろうか。上司、部長だろうか。誰でもない。それがシステムだ。システムが許さない。そのシステムとは一体何なのか。

それが資本主義社会であり、殖民地主義の時代から続く人間の管理の仕方であり、それについてぼくは違和感を持った。しかしシステムの内側は安全でもある。現代では不眠不休で働かされることはない。少なくとも日本では。「働く」。この行為ひとつにしても意味は樹木のように根を張り枝を広げる。

だから「働く」自体を作り変える。遊ぶと仕事を融合する。遊びとは強制されるものでなく100%自発的なもの。だから遊びと融合した仕事は自由になる。システムをハッキングする。ノーと抵抗するのではなくシステムに乗っ取りつつルールをそっと上書きする。根の張り方は異様なまでに違っていても、樹木としての姿が同じなら問題ない。

ぼくはシステムを上書きするために読書する。この社会の常識を超えるために。読書はインストールしてライフスタイルを実践するための道具。本がコトバで社会の回路をハッキングして新しいシステムを構築する。新しい地図を手に入れそのレイヤーを生きる。

ぼくはいま甥っ子にこのシステムを明かす訳にはいかない。もしかしたら、彼はとても優秀ではじめファノンがそうだったように違和感なく資本主義社会を生きるかもしれない。それは悪いことではない。むしろ成功と呼ばれるこの社会を攻略したひとつの結果だ。

もし君がこの社会に違和感を持つなら、この社会での抜け道、サバイバルの方法をぼくは知っている。いつか君がアクセスするときのために記録しておく。