いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

想像王国、そこへ至る道をつくる。

友達のお父さんの本棚から頂いた「日本のユートピア思想」を読みながらバスで東京へ移動した。これを書きながら、東京は「行く」でも「戻る」でもないと気がついた。

都内でバンドのリハついでに、蔡國強の展示を新国立美術館で鑑賞してきた。六本木を歩きながら、自分が暮らす場所との違いを味わった。東京は所有と価値と情報に溢れている。隙間はほとんどない。むしろ積み上がって山になっている。一方で地方の山間部には放棄と自然しかない。空白に近い。表現をするうえでどちらが良いのかは、人それぞれだろうけれど、ぼくは地方の大地に作品を広げたいと企んでいる。

蔡國強の展示はもはや学習だった。プロジェクトをカタチにするその過程が見える。作品そのものよりも、蔡さんの足跡から学ぶことが多い。現時点での自分は、いましていることを読み解くのに必至になっていると気がついた。何もない地方の山間部を拠点にしているから意味を創出する必要がある。自分のレイヤーのうえに意味を変換しなければ、そこはただの過疎地になってしまう。

最近、妻と次はどんな絵を描こうか、と話していた。とくに考えなければ、ぼくたちは花の絵を描く。大地が育む自然のカタチと色。東京の街を歩きながら、自分の見ている世界に咲く花の美しさに気がついた。だから、もっと花の絵を描き続けることにした。しかも巨大なのを描いてみることにした。売れないくらいの。巨大で美しいものであれば未だ出会ったことのない鑑賞者に出会うはずだ。

大地を開拓している。耕作放棄地や休耕田を再生して意味を創作している。これがぼくたちの表現活動だ。誰もそんなふうには理解していない。絵はキャンバスに絵の具で描くものだ。違うことをするのは面白い。意味そのものをつくる。大地をキャンバスにする。先週は草刈りをして、そこにたくさんの草が倒れた。耕運機を使うにはそれらを燃やさなければいけない。燃やす義務がある。それは景観をつくるための仕事だ。やらなければならない。つまりぼくは大地のうえに火を放つことができる。大地を焦がしてペインティングできる。

当然ながら蔡國強の火薬にインスパイアされている。火薬ほど強力ではないにしろ、大地を燃やすパフォーマンスは、ぼくがしてきたことの延長線上に揃ったカードだ。偶然が引き寄せたカードで賭ける。それがオリジナリティ。大地、火、草。焦げ跡が線を引く。痕跡。

それとは別に妻がアートトラックに夢中になっている。通称デコトラ。先週末に北茨城市アートトラックが集まるイベントがあって遊びに行った。それは過剰なデコレーションで光のオブジェだった。妻はデコトラの看板を作りたいと言う。面白い。集落に看板を立てて光らせたい。「生きるための芸術」とか「桃源郷」なんて看板を。

「日本のユートピア思想」を読んで分かったことがある。ぼくはユートピアをアートに託していた。アーティストになれば社会から解放されると思っていた。ところがアーティストだって作品を売って生きていく訳だから社会に属している。社会的な所属に当て嵌めれば単なる自営業だと解釈もできる。だからぼくは逃げ続けた。社会的な理解が及ぶようなところに生きたくなかった。それはどこなのか。つまりユートピア

この本によるとユートピアは、ここではないどこか、そのどこかへ救済してくれる願望に他ならないという。この本では日本書紀に出てくる常世の国を例に取り上げて、さらには仏教が提唱する極楽浄土に日本のユートピアの原点を見る。仏陀のあと弥勒が56億7千万年後に現れるという。そこに救済があるという。その果てしない未来に救済されるために祈るのである。

ぼくは音楽に憧れ、それに関係する仕事をしながら表現活動をはじめた。別の言い方をすれば表現活動しながら、社会に組み込まれない表現を常に夢想してきた。だからヨーロッパとアフリカを旅して、理想のアート像を探究した。日本に戻って、その理想を社会からこぼれ落ちた価値のなかに見出した。それが空き家であり地方、放棄された土地だった。価値がなければ意味も文脈も表象の破片すらも存在しなかった。いや、あるのだけれど、それは掘ってみたり並びや角度を変えたりする必要がある。つまり暗号やパズルのようであり、つまりはゼロから立ち上げることだった。己の表象の王国を現代社会のうえに構想する余地を発見した。だからぼくはあらゆる文脈から逃走する。

この文章もまた現時点での自分の位置、地図を読み解こうとしている。ここが決定的に蔡國強と違うところだと気がついた。ぼくは現実の目の前をつくりたい。アートを表現することが現実世界を変革させることを目指している。だから大地を相手に格闘している。先達と違う一点は大きな勘違いの一歩。その先にぼくが進むべき道がある。