いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

過去と未来を繋ぐ交差するライン。

80年代から続くギャラリーいわきでの展示も残すところ2日。このギャラリーを運営する藤田忠平さんと過ごす日々こそが今回の展示の貴重な時間だと思った。

 

忠平さんは、北茨城市に生まれ、田舎に育ったのにアメリカに渡り、まさにラブ&ピース、ピッピーカルチャーど真ん中、そこに身を投じた。今日話して繋がったのは、東京のピッピーカルチャー「部族」の話だった。アメリカから戻って、高円寺とか荻窪に行ったりして、いろんな仲間ができたと話してくれた。その繋がりが福島のコミューン、漠原人村だったりして、それはぼくがフェスカルチャーの前身でもある野外イベントで出会った人たちとも繋がっている。最近読んでいる山尾三省も、きっと忠平さんと繋がっているのだろう。そこと、今の接点は大きな円を描くだけで、繋がってはいないけれど、それはやがて、どこかへ着地する。きっと。

 

芸術という捉え所のない多岐に亘る表現と80年代から付き合ってきた忠平さんの言葉は、ほんとうに学ぶことばかりだ。

忠平さんは「何か表したいモノが心の奥底から湧いてくる、それが芸術なんだろう」と話してくれた。「それがブレると、もっと別のモノを求めて、他人の表現を参照したり、いくつも研究と言ってあれこれ知識を集めるうちに、心の奥底から湧くモノではなく、リサーチ、比較検討した売れるモノを作るようになってしまう。でも、それはその人の表現ではなくなってしまう」とも付け加えた。

それは忠平さんが経験のなかで得た知見で、ある意味で何十年付き合ってきた芸術という表現に対する哲学であり、結晶だ。ぼくは、その考え、言葉に触れることができるのは、まさに先人の知恵を受け継いでいる瞬間なのだと感じた。

 

ギャラリーいわきの伝説は蔡國強(さいこっきょう)との出会い、彼との歴史にある。余計なリサーチは抜きにして、忠平さんから語られる蔡國強の逸話は、ぼくにしてみれば、至宝の格言もしくは芸術家としてステップを踏んでいく帝王学とも言える。

蔡國強は、中国から亡命するように日本に渡り、そこで活動のきっかけを探すけれども、東京のギャラリーは相手にせず、たまたま出会った地方でギャラリーをはじめた、忠平さんが興味を持って、それが縁で蔡國強は、いわき市を拠点に活動した。

忠平さんは、蔡國強のすごいところは、作品をつくることだけでなく、プロジェクトを実行するための、企画、人を巻き込むこと、そのチカラだと教えてくれた。ずっとギャラリーに所属したりすることなく、自らマネジメントして、アート界のスターになった。もちろん作品の規模のインパクトも、それまでにない表現をカタチにしていた。

何より感銘を受けるのは、それだけ有名になっても、キャリアのはじまりだった、いわきの仲間たちを今も大切にしてプロジェクトを作っては一緒に作品をつくっていることだ。忠平さんは、それで世界の美術館を巡っている。例えば、蔡國強の最初期の有名になったきっかけとも言える、いわきの海の水平線に導火線で火花のラインを描く作品は、いわき市の人が撮影していて、蔡國強は、その人の名前をクレジットしている。おかげでその人の名前は、世界の芸術ファンに知られることになった。

 

ぼくは、その伝説を聞きながら、何かそのエッセンスを学習している。現代に於いては、表現する作家として、カタチをつくるだけでなく、人との関わり方もまた、作家活動の重要なポイントになっている。もちろん正解はない。だから、何を導き出して、何を公式にするかは、それぞれの選択だ。だからこそ、そこもまた表現の一部になる。その意味で、蔡國強は遠く及びもしないけれど、僅かな接点ながら、ぼくにとって学ぶところがある先輩でもある。

 

今日、ギャラリーに来てくれた人が、いろんな企画に応募して、知られる機会を増やしたらいいとアドバイスしてくれた。そういうタイミングが来たのだと感じた。それはギャラリーいわきという場所が、次のステップへの足場を固めてくれたのだとも感じた。

ぼくも、これまで関わってくれた人たちに希望の物語でお返ししたいと思う。忠平さんにも、この先の未来で恩返ししたいと思った。

 

偶然が一致するほど、美しいことはない。予想もしない合致なのだから。しかし、それに気がついて喜ぶ観察の眼差しは、いつも感度を上げておかなければならない。一致していることに気づいて、それを次のステップにできることが成長ということだから。

大地は地球だし、空は宇宙に繋がっている。その天と地の間で、やれることは果てしない。やればやるほどスタートラインに立っている。