いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

見えざる道の知恵

「人間にも核があってそれが燃えている限り元気でいられるのです」

今日、草刈り機を借りにきた二拠点生活をしている80歳の福島さんが話してくれた。曰く、やりたい事があって夢中になっていれば痴呆にもならないし健康でいられると。もちろん、それには個人差があるだろう。だとしても健康に元気に歳を取る方法なんて、どこにも教えがない。

同じく今日。いろいろお世話をしてくれている82歳の神永さんがトラクターをギフトしてくれた。神永さんは、ぼくらが集落の景観をつくる活動に賛同してくれ、休耕田に真菰(まこも)を植えてくれた。今年で2年目。何も言わずに労働力を提供してくれている。お世話をしてくれているのにさらにお世話してトラクターを与えてくれた神永さん。ぼくはいま49歳で、70代、80代の人たちとコミュニケーションすることが多く歳を取ることについて学んでいる。

神永さんは「俺は明日死んでしまうかもしれないけど、今日まで生きててよかったと毎日思うんだよな」そう言いながら草刈りしたり、真菰を植えたり身体を動かしている。福島さんも午後に草刈り機を借りに来て、作業を終えて夕方にはビールをお土産に返しに来てくれた。

今年の夏は暑くて、毎年やっている集落の草刈りに追われていた。暑すぎて一日中は作業できないのだ。だから朝早く起きてやってみたりするものの、自然のチカラにはどうしたって及ばない、その圧倒的なチカラに負け続けていた。だから文章も書けなかったし、作品づくりにも届かなかった。そんな状況のなか昨日、集落のひとたちが10人草刈りを手伝いに来てくれ、やっと追われていたのを追い越した気持ちになれた。おかげでやっと言葉が溢れてきた。

思考と身体は別の乗り物だ。それぞれ分裂している。しかし乗り手は同じ。どういうことかもう少し深掘りしてみる。人間は思考することと身体を使うこと、それぞれパラレルに駆使している。パラレルだから、それは右と左とか、正義と悪とか、勝つと負けるとか、生きると死ぬ。お馴染みの矛盾のなかに思考と身体というそれぞれの運動を持っている。

対極をそれぞれに動かすことではじめて人間はバランスを保つこと。それを感じた。だから言葉にしている。体験したことのない未知の領域を言語化していく作業、それが哲学でもあるばすだ。

しかし思考ばかりでも不安になってくる。身体を動かさなきゃ、思考をしながら身体を動かしてみる。ところが自然を相手にした労働は待ってはくれない。思考しながら身体を動かすよりも、もっと身体を動かさなければ自然の動きに負けてしまう。だから、自然と同じ速度で働く必要があって、そのスピードはまるで思考が及ばず、生きるために生きている、という状態になる。たぶん、農家さんや、一次産業の仕事をしている人たちは生きるために生きるゾーンに到達しているのかもしれない。当然ながら、この運動は自然のリズムのなかにある。暑かったり寒かったり、雨や雪、風などに対応して運動する。

その一方で文章や創作する運動は、身体よりも考えることから生まれてくる。そのリズムは自分のなかにある。自然のリズムというよりも宇宙のリズムかもしれない。運命とか偶然とか。だから会社とか労働のリズムに支配されているときは発揮し難い。思考のリズム、労働のリズム、自然のリズム、宇宙のリズム、それぞれの回転運動を持っている。

思うのは、自然を相手にした労働の社会的地位の低さについて。これはこれで歴史を遡って思考する価値があるだろう。これを教えてくれたのが音楽=ロックだった。ロックのメッセージがアフリカ大陸から奴隷制度、イギリス、アメリカ、公民権運動、ブルース、ヒップホップを経由して、いま現在、ぼくが耕作放棄地や休耕田を草刈りして景観をつくるパフォーマンスへと着地する。草刈りは社会に対する抵抗だ。

これは個人的な性質かもしれない。リズムとリズムの関係が遠いほど快感がある。思考のリズムと身体のリズム。社会的な地位、ヒエラルキーの頂上を目指すリズム。対して底辺を目指す水の流れのようなリズム。それぞれ異なる指向性がぼくを拡張する。意味が分からないほど分裂した指向性が運動しながら、やがてより大きなリズムに統合されていくのを体感している。

例えばかつて。絵を描いて文章を書きはじめたころ。その両方をやった作品を持っていくと、ギャラリーには絵だけにした方がいい、出版社には売る棚がないから、絞って文章だけにした方がいいと言われた。まあ、それは作品そのものが未熟だったこともある。けれどもぼくの出発点はその両方にある。誰に何を言われても、それが核なのだから、やめる理由も変える必要もなかった。それは今だから分かる。ぼくは自分がみつけた自分の核を燃やし続けている。おかげで、その核は両方を繋ぐコラージュという技法で生きることを貫いている。分裂していく。それは自然なこと。生きているから。生きるということは増殖していくこと。種を増やす。増殖していくとき、それは別のものを増やしていく。何に支配されるかによってこの増殖はコントロールされる。経済なのか、芸術なのか、人生なのか、会社なのか。

ぼくはこの数年、トラクターが欲しかった。集落の景観をつくるために必要な道具だった。新品を買うには高すぎる。そもそも、買うという道具を手に入れる行為よりも先に、労働が発生しているから、なくてもなんとかやれる状況にはあった。だから買う必要はないけどあったらそれは助かる。やがてそれが手に入るとき、ぼくは何をしようとしていたのか理解する。ぼくは、目的を持つことで自分の核を燃やしている。道具を手に入れることは目的でも必要でもない。それ以前にやってしまうことの重要性。

ぼくはいくつもの運動をしながら拡張分裂をしている。これが成長するということ。新たな機能を獲得する。これが経済にコントロールされたなら、利益という目的に向かって芽を摘まれていく。効率化に適応されていく。

すべては「生きるために」運動している。その原料は至るところにみつかる。お年寄りとのコミュニケーション、草を刈ること、道具の使い方、読書、テキスト、遊び、音楽、詩、海。それらが核融合してぼくを動かす。

先月まで個展のために創作に集中して、それなりの手応えを感じていたのに、草刈りの労働は、そこから離れるようで不安だったけれど、分裂の旅は長くても大丈夫だと理解できた。身体を使う労働の先には、その先にしか見えない景色が待っている。回転は偶然のタイミングだけでなく、月の満ち欠けのように必ずその先へと運んでくれる。自然と対峙して身体を動かす生きるためのゾーンは、人間の核を燃やし続けるエネルギー。


道ができている場所では、

わたしはわたしの道を失う。

大海には、青空には、

どんな道も通っていない。

道は小鳥の翼のなか

星の篝火のなか

移りゆく季節のなかに

隠されている。

そこでわたしはわたしの胸にたずねる

おまえの血は見えざる道の知恵を持っているか、と。

タゴール