時代は刻々と変わっていく中で、人は社会に翻弄されながら生きている。社会とは何だろうか。表面的には、ぼくらを助けるような構造だと受け止めるけれど、その本質はもっと別のところにある。ぼくはそれを知るために生活を軸にした芸術に取り組んでいる。なぜなら、人間は自然の中から現れたから。自然の中で、命を永らえるための活動をしてきて、それが「生活」と名付けられている。人類は歴史の早い段階で、自然の中から生存するに足りるだけの糧を手に入れられるようになった。けれども、その目的はとっくに達成されているにも関わらず欲望に支配され、人間が人間を苦しめる社会という構造を作ってしまった。社会は、夫婦、家族、地域、町、県や都市、国へと拡大していく。
国家は、人間が人間らしく生きるための環境を整える機関のようなフリをして、やはり今も人間を支配管理するために機能している。それは国という現象が持つ性質なのかもしれない。
今回の参議院選挙は、日本という国家の構造を浮き彫りにした。改憲をして戦争が必要であるかのような誘導や、消費税を8%から10%に上げる必要性があるかのように喧伝されているけれども、そもそも、国境を隔てて人間が分けられること自体、あまりにも暴力的な発想でまるで進歩がない。消費税も、そもそも、一人ひとりが人間らしく快適に暮らす社会構造を目指すのであれば、負担を減らしていくような、まったく別の方向に議論が進展するはずで、それよりも、経済活動が優先され、お金を際限無く産み出すための機関として、国家も国民も働き続けることを強要されてしまっている。
なぜ働くのか。ぼくらはこのことについて、もっと考えを巡らせなければならない。なぜ、利益を上げる必要があるのか。その利益は誰のためにあるのか。こうやって追及していけば、ピラミッド型の頂点へと利益が吸収されていく構造がはっきりと見えてくる。
社長は、社員よりも裕福で、首相は国民よりも裕福で、朝から晩まで働く人は、働けど働けど一向に暮らしは豊かにならない。働いて得たお金は、日々生きるために消費されてしまう。いや、生きるためではなく、社会構造を維持するために吸い上げられてしまう。
例えば、家賃。マンションやアパートに暮らして、どんどん建物は老朽化するのに家賃は安くならない。古くなっていくのに。それどころか値上げすることさえある。物価が上昇したからという理由で。物価が上がれば給料が上がり、土地の値段も高くなり、それでもピラミッドが大きくなるだけで、構造は変わらない。働いてお金を得るために人生の意味や目的など考える余裕すらない。もしくは、お金が手に入れば、よりよいものを手に入れるために消費する。もしくは、投資してもっとお金を増やす。困っている人へ差し伸べる手は永遠に出てこない。これが当たり前の社会だとして、ぼくらはこの檻の中で、生きている。被害者であり当事者である。果たして、こんな社会構造をずっと続けていてよいのだろうか。お金さえ増えれば、海も山も森も、破壊されていいのだろうか。お金があれば、食べ物を大地から生産しなくて良いのだろうか。正気だろうか。自然がなくなれば人間は死滅する。自分たちが、生きていく環境を自ら破壊して、経済のためだと刻々と悪化させている。あまりにもたくさんの大切なことを見ないフリをして生きている。
ぼくは、この構造の外へ踏み出したかった。違和感がずっとあった。アニメや漫画、映画や文学や音楽、芸術が伝えきたメッセージを東日本大震災を経て確信した。自分自身が変わらなければ、永遠にこのシステムから出ることはできないと。
想像してみることだ。どんな暮らしなら、誰も傷つけることなく、欲望を膨らませることなく、助け合い、自然と共に生きていけるのか。理想は夢物語なのだろうか。ピカソは言っている。「思いついたことはできる。思いつかないことはできない」この名言に倣うなら、誰かに期待しているうちは、理想を実現できない。期待はしない。期待はいらない。この世界は、この世界とは、自分の目を通して見ることで、自分の目を閉じてしまえば、自分の世界も閉じてしまう。お休みは夜もしくは死を意味する。この目を通して見る世界を作家のカートヴォガネットは「穴」と表現した。死ぬとき世界を覗く穴は閉じる。
自分が覗く穴から見た世界を理想に近づけていく。そういう遊びを「アート」ですと言って、手当たり次第、生活に関することを芸術に見立てている。つまり、生きることこそが芸術だと宣言している。ぼくらには人生をつくる自由がある。なぜなら、これだけ発達した時代、例えば100年前に比べて、ひとりの人間がやれることは格段に増えた。僅かなお金で食料も手に入る。情報だって世界中の至るところへアクセスできるし、太古の様子から少し未来の可能性まで知ることができる。それだけの超能力を持っている。100年前に比べれば。ところが、ぼくたちはその能力を駆使することなくイタズラに時間とチャンスを消費している。
ぼくたちは、国家が用意する安心安全とされる檻の中で遊ばさせられている。国家は、人間を管理するためにそもそも存在している。人間は人間が作ったものに支配される性質がある。平地の稲作農業は、まさに人間を定住させ管理するために発達してきた。けれど、平地以外にも人間はいた。森の中や険しい山の中にも。その人々は、国家の管理から逃れ生きていた。
それが遊牧民やジプシー、放浪者たち。もしくは、未開民族と呼ばれる人々だった。彼らは、遅れているのではなく、自ら原始的なライフスタイルを選択していた。敢えて文字を使わなかった。自由のために。国家は、管理されない人々を蔑み、卑しい人間として扱った。自分たちの利益にならないどころか、反抗・抵抗・逃走するのだから。
「ゾミア-脱国家の世界史」と題された本は、その管理されてこなかった人々が生きてきた領域を、歴史に記録されてこなかった、歴史からすっぽり抜け落ちている自由へ逃走した人々の様子を伝えている。原題は”The Art of Not Being Governed”=統治されない技術。歴史は編纂されている。勝者たちによって。負けた人々や弱者の思想や言葉は歴史には描かれない。つまり、歴史とは真逆のユートピアが存在する。
例えば、江戸を倒幕した明治政府の歴史とは真逆に、江戸時代はユートピアだったと伝える説もある。鎖国しているから敵はなく、国内は統一され、だからこそ江戸時代には独自の文化が花開いていた、と。
だとして例えば、2019年の今現在。あらゆる状況を逆手に取り、マイナスとプラスを反転させながら、独りよがりの欲望に溺れないように快適な暮らしをデザインすることができるんじゃないだろうか。何のためにいくらお金が必要なのか。考えてみる。考えることは1円もかからない。インターネットもテレビも切断して、自分の世界を開拓する。逃走もせず、反対も抵抗もせず、静かに自分の生活をつくる。
これはぼくが使っている生活芸術のフィールドマップ。社会の反対側には自然があり、貨幣の反対側には採取がある。スーパーマーケットで食べ物を買う代わりに自然から採取すればいい。例えば、借り手がいないボロボロの空き家は社会採取できる。社会の価値から零れ落ちて自然に限りなく接している。そういうモノコトは貨幣を使わずに採取できる。
このやり方でどんなライフスタイルを描くことができるのか。自然と採取の側では、自分で考えて行動すれば、搾取も消費もない。むしろマイナスをプラスにする生産へと転換する。いま準備と実践を繰り返している。あと二、三年、この実験を続けて本にしたい。生きるための芸術第3巻。三部作の完結編。
ぼくは妻と二人でひとつの人格、檻之汰鷲(おりのたわし)だ。檻之汰鷲とは、檻の中のようなこの社会から、アートのチカラで大空を自由に飛ぶ鷲になることをメッセージする。
参考文献:
ゾミア―― 脱国家の世界史
「生きるための芸術 40歳を前に退職。夫婦、アートで生きていけるのか」
「漂流夫婦、空き家暮らしで野生に帰る。生きるための芸術2」