いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記2022.0515

日々を記録することは、自分自身を掘り起こすことだ。耕すとも言い換えられる。日記は誰かに読んでもらう目的よりも、自分自身の現実を映し出すために書く。なぜなら、自分の見ていること体験していることは、目の前にしか存在せず、自分以外の誰もここを知ることはできない。

"There is no authority but yourself"ここ数日、聴いていたパンクバンドCRASSの歌詞。「自分以外に自分を支配できない」という意味。自分自身を動かす以外に生き延びることはできない。生きていくことはできる。惰性で。枠の中で。誰かの指示を待って。文句を言いながら。

そんな日々から脱出するために檻之汰鷲(おりのたわし)をはじめた。檻のような社会からアートのチカラで大空を自由に飛ぶ鷲になる、という意味だ。

日記を書きはじめたのは、クルマの違反が溜まってまさかの免停になって、免許を再取得しようと、一発試験に臨んだときだった。つまり自分で勉強することにした。まさかそれが自分から学ぼうとしたはじめてのことだった。参考書を読みながらペンとノートに覚えるべきことをメモしていく。ところが考えは脱線していく。やりたいことが頭に浮かぶ。それもついでメモするようになった。メモしたことは記録されていく。あとはそれを実行するだけだった。そのメモは自分を動かすコードを入力しているようだった。

存在は無だ。VOID。空虚。それにカタチを与えるために器にする。存在は器だ。中身はない。その側面が存在の個性をつくる。人間も同じだと思う。「ぼく」という存在は、自分のしたこと、見たこと、聞いたことが混ざってバターのような、それこそ粘土で固められている。その成分を抽出するのが日記だ。オリジナルな器である必要ないのかもしれない。果たしてそれでいいのだろうか。自分を動かすのが、自分を指令できるのは自分だけだ。なぜなら生きているのは自分なのだから。死ねば見えている世界は閉じて消える。だとして、ひとつののぞき穴が消えるだけで世界全体は蠢いている。

世界と社会を区別してみよう。世界とは宇宙も含めたすべて。社会は人間が作り出したシステム。社会は混沌とした世界を整理して人間が生きやすくしたシステム。人間がそうデザインしている。しかしすべての人間がデザインに関わっているのではなくごく一部の人間が決定権を持っている。むかしはチカラのある者たちが。今はどうだろうか。

この人間社会のシステムに従って生きるのか。それとも世界に泳ぎ出てサバイバルするのか。世界に泳ぎ出たとしても人間社会の中に生きる。世界と社会は異なるレイヤーで重なっている。世界の住人も社会の住人も同じ地平に暮らしている。