むずかしいことだけれど書いておこう。北海道で滞在制作しているので、ついに民族共生象徴空間ウポポイに行った。ウポポイは、北海道の先住民とされるアイヌの伝統を紹介する施設だ。
この施設では、歴史、民族の衣装や祈り、道具などが展示されている。ホールでは踊りも見学できる。ここにあるモノをエンターテイメントとして楽しむことができる。けれどもその背景には、人類の歴史に必ず付き纏う侵略と差別から目を背けることもできない。エンターテイメントとして消費できない傷みがここにはある。この消化できない思いをどうにかしたいと一冊の本を買った。
「アイヌからみた北海道150年」
石原真衣 編著
ウポポイの展示やイベントを体験することと、アイヌとして今を生きている人たちの声に耳を傾けることは一致しない。もちろん、本を読んでも話しを聞いたとしても、当事者たちの何かを理解することはむずかしい。でもここには明らかな反省すべき人間の誤ちがある。
例えばアイヌ民族とは何か。という問いがある。それは血なのか。だとしたら、血縁者ではない人がウポポイでアイヌの踊りを舞うことは偽物なのだろうか。
少し前、日本のラッパー5Lackが、アメリカのラッパー6Lackのファンにアジア人が真似してラップしてるとSNSで笑い者にされて話題になった。簡単に説明すると、ブラックアメリカンの文化であるヒップホップを盗用するな、という風潮がある。5Lackは 6Lackよりも前からその名前で活動していたにも関わらずその事実は無視されたまま話題になってしまったのだ。
アイヌであるというアイデンティティは、日本人として暮らすという強制/共生のもと、歴史から消されようとしていた。そのアイデンティティは長い間、痛みや苦痛でしかなかった。ところが、時代の流れのなかで、少数民族や先住民を保護する政策が世界中で取り組まれるようになり、アイヌの人々も、少しずつアイデンティティを取り戻しはじめた。
そのことを明るみにした歩みそのものでもある萱野茂は、1926年(大正15年)現在の平取町二風谷に生まれる。アイヌ語しか話せない祖母の影響でアイヌ語を母語として育つ。小学校卒業後は造材人夫として生計を立てる。コタン(集落)からの民具の流出に心を痛め、1953年(昭和28年)頃からアイヌ民具、民話の収集記録を始める。
1960年(昭和35年)アイヌ語研究者であった、金田一京助博士や知里真志保博士の影響により、アイヌ語の記録を始める。
1970年頃より、資料館を設立し、アイヌに関する映画記録や著作活動をさかんに行うようになる。萱野茂の「チセ・ア・カラ アイヌ民家の復原 われら家をつくる」の解説を宮本常一が書いているらしい。
書籍「アイヌからみた北海道150年」によると、
アイヌであるという痛みや苦痛を消すためにその文化は伝承されてこなかった。しかしその文化を復興することが、存在証明になると、萱野茂は活動を精力的に行った。
また1980年代には哲学者の梅原猛が「アイヌは自然と共生する原日本人である」というコトバがイメージとして定着する。
こうした努力が積み重なって、現在のアイヌ像が出来上がっている。
けれども、今を生きているアイヌの人々は、アイヌのコトバも話さないし、伝統的な何かをするわけでもないし、自然とも共生していない。つまり、ぼくと同じように生きている。ここにむずかしさがある。
アイヌの物語は、アイヌにルーツを持つ人たちだけのものではない。また萱野茂さんが、復興したから現在に受け継がれている文化のように、今現在失われているわたしたちの文化がある。この「わたしたち」が誰に呼びかけているのかも、考える必要がある。「わたしたち」とは血や民族ではなく、このコトバが届く範囲のわたしたちだ。
わたしたちは、重なって生きている。悲しみも想いも未来も過去も折りたたみながら。もしヒップホップがブラックアメリカンの文化を肌の色や血で区別するのだとしたら、また誰かが誰かを区別して傷つけることになる。
ぼくは北海道の大地のうえに滞在し制作している。大地と繋がっている。だから、ぼくはこの自然と共生していると言うこともできる。アイヌという問題について触れずにこの地で表現することはできない。だからと言って、アイヌの伝統や文脈が作品に反映される必要もないと思っている。どこの大地に立ったとしても、そこには歴史が押し潰してきた傷みや悲しみが地層のように重なっている。