いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

住所を捨てて座標に暮らす

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"われわれのなかにあるもっとも原始的なものを掘り起こし、それを現在に活かす道を見つけることが、これからのわれわれのひとつの目標になるだろう"
鶴見俊輔全集「日常生活の思想」

 

東京を離れて5年が経った。いまは茨城県里山に暮らしていて、世間の動きとは関係なく毎日が流れていく。

あまり訪ねてくる人もいない。けれども稀に訪問してくる人がいる。どういう訳か事前に電話が来るのでもないしSNSで連絡がくるのでもなく、そういう人たちは突然に現れる。ここはそういう場所なのだ。

昨日は、数ヶ月ぶりに茨城町の元気な人が現れた。名前を聞いても教えてくれない。年齢も職業も分からない。質問すると、名前とか職業とかそういう属性を聞くのは野暮だと返される。とにかく元気な50歳くらいの男性が何をしにくるかと言えばアイディアを持ってきてくれる。不在のときはメモとサツマイモを置いて行ってくれたこともある。

昨日はアトリエ&ギャラリーを無人で運営するという企画を運んできた。多くの人はアート鑑賞をこっそりやりたいのだと言う。自分が誰だとか、今日が何だとか、普段何をしているとか、そんなことから離れて没頭したいそうだ。それなのに多くのギャラリーは放っておいてくれない。だから、足が遠のくと。

元気な人は解決策を提案した。無人だ。誰もいないギャラリー。気兼ねなく鑑賞できる。没頭できる。コーヒーもセルフサービス。お風呂も開放する。大胆な提案に笑うと、こちらの心を読んだように

「誰も何も盗ったりしないさ。悪さなんてしないよ。日本人なんだから」そういって話を続けた。

信じることだ。疑いがあるところに幸せは訪れない。お金は必要。だから御賽銭箱を設置して任意で支払ってもらおう。かえって一万円とか払う人もいるかもしれない。告知はダメだ。告知は相手に過剰な期待をさせる。期待を煽れば欲が出る。そうじゃない。だから住所も知らせない。どの道を通って右とか左とか、そんな情報いらない。誰彼来ても意味がない。無駄に忙しくなる。だから住所ではなく座標で位置を示す。つまり緯度と経度で。これなら世界中どこの誰だって場所を理解できる。
 

E:140.714778
N:36.859419
H:146

元気な人は座標を与えてくれた。Hは標高を表している。

しかし、この座標を掲示して辿り着く人、これを調べてわざわざ足を運ぶ人はいるのだろうか。
だからダメだと元気な人は言う。それでも足を運ぶような何かがあればそれがすべてだ。中身がないのに工夫ばかりするバカばっかりだ、と教えてくれた。

茨城町の元気な人は常識を外す遊びをしている。例えば、美術館に行って、コロナ禍でもマスクをしないで大声で話す。受付の人が困惑する。すかさずコロナが実在すると思うか質問する。受付の人が応援を呼ぶ。警備員が来る。上手くいった。計画通り。元気な人は道化師だ。ピエロを演じている。彼はわざとそう振る舞って、美術館がどんな体制なのかを炙り出している。そしてこう言う。

「みんな警戒しているんだ。嫉妬している。何かを盗られないか不安なんだ」

 

ラーゲルクヴィストの小説「巫女」の冒頭で主人公が家のドアに乞食がもたれかかっているのを見て、嫌悪感で追い払ってしまうシーンがある。実はその乞食は神さまで、それ以降、呪われたように厄災が主人公に降りかかる。

目の前の人がぼくに向かって言葉を発するとき、その言葉はもう自分のコトバだ。誰かと会話するとき実は自分と話しをしている。なぜなら相手はぼくに応じたコトバを選んでいる。ぼくが欲しているだろうコトバを推測して与えてくれる。逆もまた然り。なかには、自分のことだけ話す人もいるけれど、注意深く耳を傾けていれば、その言葉のなかに自分を見出すこともできるだろう。

文章を書くのも自分を知るためだ。コトバに変換すると同時に自分を記述している。だとして自分とは何だろうか。わたしは器。容れ物。そこに入っているものが自分を構成している。だとして表現することが器なのだとしたら、自分自身は空である。自分のなかにあるモノを陳列する。自分は空間で、その棚の有り様が文章になり、作品展示になり、ときにはお店にもなる。表現は空に在る。

文章を書いていて、ある変化に気がついた。
「ぼく」という存在を陳列しても、それを売ることはできない。けれども「ぼくのなかにあるモノ」だったら他者に与えることができる。同じようなことだけど全く違う。自分を押し売りすることは空で商売するようなことで、代わりに自分を構成するモノを紹介してギフトしていくことができれば、他者に贈与することが豊かさになる。自分のなかでこんな変化が起きている。

住所では辿り着かない場所がある。大切なのは目的地とそこへ至る過程だ。つまり目的地を設定すること。ところが、将来何がしたいとか、どんな仕事がしたいとか、どんな会社で働きたいとか、この場所をPRしますとか、それらすべてはアドレス的な情報でしかない。生きるためにもっと必要とされるのは、目的地を表す座標だ。枠組みや制度、境界線を超えてより根源的なライフをワークするための行き先。


「太古」 「原始」 「絵画」

漢文学者・白川静の「漢字の世界1 中国文化の原点」を読みながら、これらの文字に目が喜んでいることに気が付いた。文字を読みながら文字そのものを鑑賞しているのだ。漢字は、文字自体に意味が秘められている。白川静はその特徴を発見して漢字のルーツに遡って太古の人々の姿に迫った。そこには生と死、祈りと神と祭祀があった。

文章を書きながら、気持ちいい漢字を散りばめている。気分の悪い文字ばかり見ている人はそういう文章を書く。いずれにしても、文字の宇宙には漢字がそれぞれの星座となって輝いている。それぞれの人のコトバの羅列がそれぞれの星座になる。

座標とは星座だ。ナビに目的地を入力して向かうのではなく、大地に足をつけて、朝日が昇る方向を確認する。東から西へ。東西南北。夜、空に輝く星の羅列を確認する。

住所を示せばそこへ至る経路は限定される。住所とは制度上の位置情報だから、高速道路か国道か、それぐらいの選択肢しかない。それは国家、市町村からなる管理された属性を超えない。

同じ場所だとしても、住所ではなく緯度と経度で示した途端に、360度、至るところからアクセスの可能性が開かれる。空から、山から、地中から。そんなことはありえないだろう、と思うかもしれない。けれども示されたのは座標だけなのだ。だとして、ここにはもう境界線は存在しない。おかげで自由や楽園はどこかの遠くではなく、今いる場所にダブっている。アクセスするためには、現住所を捨てて、座標に暮らせば、日々のなか、足元に泉のように湧き出している。