いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

5000年前、文字以前のこと。

阿久遺跡に行った。妻の実家からクルマで30分の長野県諏訪地方にある、縄文時代の遺跡。約6000年前にここに村があり、その中央には祭祀をする場所が発掘されている。昭和50年に中央道を建設する際に発見され調査を経て、再び高速道路の下に埋め戻され、いまでは見ることができず、道路に分断された広場があるだけだ。

妻のお母さんの実家へ行ったときに、茅野市の尖石縄文考古館にも立ち寄った。ここも長野県諏訪地方で国宝「縄文のビーナス」が昭和61年(1986年)に、平成12年(2000年)には「仮面の女神」が発掘されている。これら土偶が発見されたのが、この数十年だということに驚くばかり。

この尖石遺跡の発掘調査が始まったのが1930年。縄文時代という歴史的区分が始まったのも戦後のことで、縄文土器という名称は、明治10年(1877年)に貝塚を発掘して、日本に考古学の基礎を作ったエドワードモースに始まる。歴史が始まる前の太古が発見されたのはほんの100年ほどの話だ。

 

阿久遺跡を知ったのは、今年の秋に縄文EXPOというイベントで、トークに呼ばれたときだった。登壇者が阿久遺跡は特別な場所だと話していて、ときには宇宙人の話にもなった。

人類の進化は宇宙人の影響による説は実在していて「フラワー・オブ・ライフ」という本はよく知られている。グラハムハンコックの「神々の指紋」では、ピラミッドの壁画に宇宙船が描かれているとか、マヤの人形は宇宙人だ、という説で、オーパーツを巡って超古代には現代以上の高度な文明があったとしている。土偶も宇宙服だという話もある。

実際にその場所に立って感じるのは、阿久遺跡の魅力は何もないことだ。看板がひとつ設置されているだけ。一方、尖石遺跡は、考古館があって現物も展示され調査研究が進んでいる。しかし阿久遺跡は、埋め戻されてしまって何も見ることができない。それなのに看板には祭祀が行われていたことを証明する貴重な遺跡だと書いてある。

だから、隠蔽だとか、わたしは阿久遺跡がどんな役割をしたか知っている、宇宙人とコンタクトしてその秘密を教えてもらった、という話が乱立してくる。そこで語られるのは調査研究とはまた別の「感じる」という感覚から溢れてくる物語だ。常識では考えられない、もしくは自分の理解を超えるとき、人はシャットアウトしてしまう。

 

つい最近、こんな体験をした。チフミのお父さんが病に倒れ、緊急手術をして、それから数週間寝たきりになり、意識を取り戻したとき、ありえない死後の世界、もしくはパラレルワールドの話しをした。

死神と孫が対決して、文藝春秋でも報道され、かなりの批判があって、会社の社長さんが孫を庇ってくれた。コロナ禍で面会できなかったこともあり、退院して会社の社長に挨拶するときまで、それは現実だった。

「孫が文芸春秋で報道されたとき助けもらいありがとうございます」

とコトバにしたとき、家族は驚き、あとでこっそりと真相が明らかにされた。

わたしたちにはあり得ない話でも、本人は確かにその時間を過ごしていた。それがどんなものであれ、個人の体験は、その人の世界に起きた現実であり、そのイマジネーションに限界を設けたくはない。だから阿久遺跡からコンタクトしてメッセージを受けたという人の話を採取してみたいとも思う。

つまり縄文土器にはまだ自由が残されている。太古を想像する余地が。答えがないから、旧石器時代に5000年前の人類がどのように生きていたのか、空想することができる。

縄文土器を目の前にすると、コトバにならない感情が込み上げてくる。確かなのは、ここには祈りが込められていることだ。ここには祭があった。

 

漢文学者の白川静は、漢字のルーツを紐解き、太古の人々の姿に迫る。漢字のルーツは甲骨文字で、今から3300年前の中国、殷王朝で発明された。

白川静は、甲骨文字に込められた意味を読み解き、それらが神と交信するための道具だと明らかにした。それは直接的に縄文時代のことを伝えるものではないけれど、少なくとも5000年前の人類が神を敬い、何からかの儀式を行っていたことは間違いない。

では何のために? それは命に関わることだと想像できる。自然に包まれた世界のなかで、その厳しさのなか、生き延びること、命を授かり育むこと、自然の恵みに対して、自然による怒り狂うような暴力に対して、なす術として、祭り、祈ったのではないだろうか。

 

ぼくの表現は文字に始まり、また文字に回帰した。けれども、どうして文字に夢中になったのかすぐには思い出せなかった。その当時はまだこうやって文章を書いていなかった。だから記録が残っていない。思い出したのは、小説を書くためにある世界を作った。その世界をつくるために文字から作ろうとしたのだ。それで数年間文字の研究をした。文字のカタチを作ることが自分の表現の始まりだった。自分の歩いてきた道に興味や関心の種が蒔かれている。とくに自分の道を歩きはじめたきっかけには、ほかの誰とも違う強い意志が眠っている。