いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

欲しいモノを手に入れるために欲しいモノをすり減らしていたら、それは手に入らない

1月3日。朝4時。気温はマイナス2度。自分でつくった家に暮らしている。まず部屋を暖めるために、薪ストーブに杉の葉っぱ、枝、不要な郵便物を放り込む。マッチで火をつけると、杉の葉に炎が上がる。燃える匂い。火が安定したら太い薪を入れる。部屋が暖まったらコーヒーを淹れる。コーヒーカップぐらいは自分でつくりたいと思う。

やってみたいことはたくさんある。なかでも今年は、文章の精度を上げたい。並んだ言葉が読み手のところへと届くようにしたい。伝えるというコトは、ここで起きていることを、相手側の心に通じるトンネルをつくるようなことだ、と新年に本を読みながら感じた。ちなみに村上春樹が翻訳した「極北(マーセル・セロー著)」を読んでいる。

昨日、東京に暮らす先輩から電話があった。久しぶりにゆっくり話をした。とても苦しんでいた。仕事のこと、家族のこと、過去のこと。向き合うことが多すぎて逃げているうちに鬱になったと告白した。後悔している過去を受け入れて、それを自分の一部として人に開いていけば、新しい自分になれると考えていると話してくれた。

具体的に何をすることもできなくただ話を聞いた。話を聞きながら、自分は、ひとがもっと幸せに生きていく選択肢を増やすために表現活動をしているのに、何も役に立てていないとも感じた。

誘惑の反対側に「楽(らく)、楽(たの)しい」があると思う。誘惑とは、あれが欲しいとか、あれがしたいとか、そういう衝動のことだけれど、ほとんどの衝動が生命活動と関係ないところで作動している。ナイキの靴を買わなくても死なない。社会は商品と欲望のシステムで循環している。そのシステムをほぼ完成させようとしている。競争のシステムだけで社会は動いている。勝つか負けるか。例えば、6人いれば、走ることは1位から6位に振り分けられる。6位になる人は走る必要がないと言われる。そういう気分にさせられる。もっと違うことした方がいいとすら勧められる。「走る」を別のことに置き換えても成り立つ。「歌」とか「絵」とか。

東京の板橋に住んで音楽関係の仕事をしていたとき、多くの人は青山、渋谷、三軒茶屋あたりに暮らしていた。当時は、よりよい仕事、よりよい居住環境を求めていた。だから「なんで板橋なんかに住んでいるの?」と言われたことがある。そのときは何も言わなかったけれど、答えは単純で、家賃がほかに比べて安いからだった。それでも23区に住みたいという誘惑があった。よりよい仕事を求めて、誰かがその仕事を獲れば、よりよくない仕事を誰かがやることになる。よりよい住環境を求めれば、誰かは誰かに劣る暮らしをすることになる。

結局のところ「よりよい暮らし」は商業戦略でしかない。家賃が高いのも、つくられた競争によって起きている社会現象に過ぎない。だから、そんなことで気を病むくらいなら、ゲームを降りた方がいい。ほんとうは先輩にそう言いたかった。

先輩はどちらかと言えば、ゲームに強い方だった。会社を興して、お金を稼いで。成功していた。だから、何がいいとはぼくから言うことはできなかった。また再起すればゲームに勝つ可能性も充分にある。言いたかったのは、駆けっこでビリになった人間にも走る理由はいくらでもあるということだ。身体を動かすことの意義や、走ること自体の楽しさや、場合によっては、どうしても走らなければならない状況もあるかもしれない。それこそ生き延びるために。でも先輩は、そういうことではなく、競争社会でもう一度、戦うと宣言しているようでもあった。

ぼく自身は、ほとんどの競争に勝ったことがない。だからなのかもしれない。競争が起きない方を選択してきた。多くの競争を放棄した代わり、いまは板橋どころじゃない、北茨城市の山間部に暮らしている。

一応言っておくと、競争を放棄した先には自然界がある。自然を利用すれば最低限生きていくことは可能だ。人間はそうやって生きてきた。とても当たり前のことだけれど、大地は食べ物を育む。自分が食べるという規模に於いては自然は競争を強いてこない。自然界は弱肉強食だと思うかもしれない。観察してみると自然界は強い弱いではなく、それぞれが違う種目で生き延びている。できるだけ勝ち負けに関わらないように棲み分けされている。もしくは自ら棲み分けしている。

自然界に倣うなら、欲望の反対側に棲息することで、楽に生きていくことができる。その観点からすると、別のゲームが始まっているのかもしれない。ロケーティングすること。自分の環境を再構築すること。ソーシャルディスタンスという言葉が示すもの。あらゆるモノとの距離を調整して、間合いを取りながら生きていくこと。

社会が裂けようとしている。問題はそこにある。先輩の苦しみが、その引き裂かれる叫びにも聞こえる。「棲み分け」という言葉を持ち出したけれど、こっち側とあっち側と棲み分けするための言葉ではなく、全体の問題として分類するのではなく、細部のパッチワーク、配列の仕方で状況を変えることを提案したい。ある部位だけの視点を変えること。動物と違って人間が抱える社会は複雑で巨大だ。棲み分けする部位は、細部に分け入るほど増殖していく。だから、ロケーティングする部位は、常に一時的でしかない。情報化の速度と量が増えるほどに、変化のスピードも増していく。

先端を尖らせていくのではなく、裾野を広げていくこと。自分自身の許容範囲を広げていくこと。それは弱点を突いて殺すのでも黙らせるのでもない。温度をコントロールするように適温をみつけること。

いまは北茨城市限界集落とされるような里山に暮らしている。競争はほとんどない。薪ストーブを使う人はいなから、薪になるものは取り放題だし、倒した木は処分するのにお金がかかるから運ばれてくる。耕作放棄地は広がる一方だから、草刈りをして整地すれば使わせてもらうことができる。ここには一時的に快適な空間が構築されている。けれども、コロナが長引けば、状況は変わるかもしれない。移住者が増えて、薪も譲り合いになるかもしれない。土地も分割して売られていくかもしれない。

競争社会は、常に下位を切り捨てていく。その狭間に価値を与えると「楽」が生まれる。それはすべてが等しく並列すること。
コーヒーカップを創ること。材料を買ってきてつくるのか。自然から採取してつくるのか。コーヒーカップを買うこと。100円ショップで買うのか。唯一つしかない芸術的なカップを買うのか。もしくは捨てられたカップを拾うのか。

「コーヒーカップ」を別のモノに置き換えてみれば、世界には想像を超えたバリエーションが存在する。