いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

カタチのエロスは生命。

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粘土で器を作っている。たまたま出土した粘土を陶芸家でもないのに器にしようとしている。何をしているんだろうと考えた。

思いついたのは、人類がしてきたものづくりをやり直しているという答えだった。新しい展開を迎えた。これまで「生活を作る」という表現をしてきて、それは身の回りのモノを駆使することで、自分が探究してきたアート表現の「サバイバルアート」と合流した。つまり、身の回りのモノを駆使して作品をつくることは、自然を駆使して生き延びることだった。人間が生きるためにしてきた工夫こそが生きるための技術であり芸術でもあった。

技巧匠に進化していくより、モノの起源に向かって退化していくと「はじまりのカタチ」に遭遇する。それは最低限の簡素なカタチで、目的を果たすためだけにある。例えば器なら水を容れるためだけのカタチをしている。そのカタチに美しさがあると感じる。なぜなら、それは区別しないから。「できる人/できない人」に分けないから。

技術とは素晴らしいものである一方、区別する。分かりやすい例だと家がそうだ。家とは専門家が建てる。けれども生活するという観点だけに絞るなら、誰でも家をつくることはできる。屋根と壁さえあればいい。床や窓もあればもっといい。それだけのことだ。けれども専門家の仕事になっている。「わたしは家は建てられません」と平気で言えてしまう。生き物の観点からすれば、わたしは眠りません。わたしは食べません。と同じ放棄の仕方だ。

「はじまりのカタチ」は、自然から生み出される。なぜなら、まだ自然しかなかった頃にはじまったから。例えば、器であれば、火と水と土と風によって形作られる。家もはじまりは自然からつくられた。服もそうだ。紙も自然からつくられたし、お金も自然物だった。その領域に踏み込んでいく活動を何て呼ぶのか知らない。ぼくは絵を描きたいのでも彫刻をしたいのでも陶芸をしたいのでもなく、はじまりのカタチに触れたいのだと気がついた。それが「生きるための芸術」とういうことになる。もちろん、はじまりのカタチに触れられるなら、絵も彫刻も陶芸も農業も釣りでもなんでもやりたい。

最近は目の前の景色を描くようになった。現実をつくるようになると、目の前にあるものに価値を与えることができる。想像力を現実世界に発揮できる。伝わるだろうか。それぞれの目の前にこそ価値がある。それぞれの人がそれぞれの仕方で目の前に価値をつくることができれば人生を社会を豊かにできる。

そのためには、専門家や技術者だけができるという区別があっては世の中は美しくならない。誰もがやれることでなければならない。だからはじまりへと遡っている。カタチのはじまりには誰もができる普遍的な技術が埋蔵されている。

これまでしてきた生活をつくる活動と制作活動が交差した。生活するために掘った井戸から出てきた粘土で作品をつくろうとしている。

これまでパピエマシェという張り子の技術で動物をつくってきた。それは新聞紙、枝、段ボール、セロテープ、小麦粉、水でつくる。これも身の回りのモノで構成されているから気に入っている。この技術で動物をつくってきた。動物のカタチから神のデザインを堪能できる。地球や自然を創造する何ものかの造形。幸いこれに著作権はない。模倣しても罪にならない。動物とは絶妙なカタチをしている。猫なら猫、犬なら犬。それぞれのカタチに特徴があり、それぞれの個体に表情がある。パピエマシェでつくった猫をモデルに土器の猫をつくろうとしている。一歩前進した。猫のカタチをつくりながら思った。動物をつくるときのポイントは愛と魅力に溢れる命だと。それはエロさだと思った。

勝手な解釈なのだけれど、人類の最初期に存在した表現と対になっていた祈りとはエロさだったのではないだろうか。

景色にも器にも動物のオブジェにも、そこにエロさが宿ったときモノだとしても命が与えられる。それは曲線にあるのかもしれない。直線から曲線へ一歩前進した。していることについて考え、書くことで自分自身がつくられていく。モノをつくることによって人間は進化してきた。それは疑いようもない。だからこそ、技術も上手いも下手もなく、ぼくたちは何かつくる必要がある。生き物として生き延びるために。