いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

アートで生きる=アスリートになること

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北茨城市で活動する作家の先輩、真木孝成さんの展示に、いわきギャラリーを訪ねた。いわきギャラリーは、福島県いわき市の老舗で、中国の有名な芸術家、 蔡國強が拠点にしたことでも知られている。このギャラリーの魅力は、作家とお客さんを大事にしていること。

むしろ、この2つを大切にしてないギャラリーがあったなら、それは程なく潰れるように思う。例えば、ふらっとギャラリーに入ったとき、どんな対応をしてくれるか、丁寧に説明してくれるのか、無視して裏で作業を続けるのか。いわきギャラリーは、ぼくらが初めて訪れたとき、コーヒーを淹れてくれ、2時間も話しをしてくれた。

今日は、真木さんの陶芸作品を鑑賞して、もちろん買うつもりで行ったので、充分吟味して、ひとつを選んだ。真木さんの陶芸作家としてのキャリアは長い。海外生活のために、作家活動を辞めていたけれど、日本に帰国したのを機に活動を再開した。古くからの友人であるギャラリーオーナーの藤田忠平さんは、再起を祝い個展を企画した。

忠平さんは、アートで生きることについて語ってくれた。

「まずは作品をつくること。毎日コツコツとやること。作品が溜まったら展示をする。売れる作品、売れない作品あるけれど、残った作品に新作を足して、世界観を持って展示を繰り返す。アートで生きていくのはアスリートみたいなことだよ。」

北茨城市には、真木さんのほか、小板橋弘さん、毛利元郎さんがいる。小板橋さんは、元サーファーで、板に絵を描いたりしていたけれど、60歳になってもサーファーは想像できないとの理由で20代後半で画家に転向した。そのとき相談されたのが、ギャラリーをはじめたばかりの忠平さんだった。

「絵を描いて生きていくのは厳しいことだ。これまでの付き合いを絶って、山の中に篭ってやるぐらいの気迫じゃなきゃ話しにならない」と忠平さんは言った。すると数ヶ月して、小板橋さんは、電気も通っていない山の空き家に引っ越して絵を描き続けた。小板橋さんは、忠平さんのギャラリーで最初の展示をして以来、個展をレギュラーで開催している。

忠平さんは「小板橋くん、ほんとに山の中に籠っちゃうからびっくりしたよね」と笑いながら話してくれた。

イタリアの風景画を描く毛利さんは、はじめは難解なオブジェをつくっていたけれど、あるときから風景画に変わって、忠平さんはその絵に惚れていわきギャラリーで個展をやるようになった。それ以来、隔年で個展をやっている。2人とも制作活動だけで生きている貴重な先輩だ。日本は絵が売れないと言われるけれど、こうやって生きている人たちがいる。

忠平さんのギャラリーは、作家と共に成長してきたから、年間のスケジュールはほぼ埋まっている。作家もお客さんも、ここで作品と出会うのを楽しみにしている。

話のなかで、ぼくたち夫婦が有楽町マルイの個展をやって、作品を売ったけれど、これを続けていくのか、という現実に直面していると話すと、

忠平さんは

「そのサイクルが見えてきたか。それは良いことだ。それなら、年に4回展示をやることだ。それも違う地域にある4つのギャラリーで。ひとつのギャラリーで売れ残った作品を次のギャラリーで展示する。もちろん日々制作することは、作家の基本だから新しい作品も足されていく。この繰り返しだ。ところでどんな作品なんだ?何か見れるか?」と聞いてくれた。

作品のポストカードを見せると
「いいね。新しい。こういう絵はここでやったことがない。ウチでやろう」と言ってくれた。

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「けれどもスケジュールはいっぱいだから、急遽空きができたら声を掛けることになる。そのときのために作品をつくっておけるかな?」

ぼくは、忠平さんと話している間、ずっといわきギャラリーで展示したいと言いたかった。けれどもタイミングが来ればそうなるだろうと思って黙っていた。だから、アートを愛して育ててきた人に一緒にやろう、と言われたことは、とても嬉しかった。来たるべきその日に向けて、日々制作をやる気になった。いわきギャラリーは、まるで「生きるための芸術学校」だ。続けていくために必要なことを惜しみなく教えてくれる。北茨城市は、何もないような田舎なのだけれど、アートを愛する人々を輩出する土地でもあるらしい。