いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活をつくるために<構想ノート>

f:id:norioishiwata:20180811092916j:plain思いついたことをメモするだけで明日は変わる。頭の中から取り出しておけば妄想は現実に変わる。それがノートだ。

生活をつくりたい。思いのままに生活を編集できたら無敵だと思う。そもそも生活とは何だろうか。生きている理由の根源を突き止めたい。「生活」とは生命を維持するための活動。そのために必要なものは何か。これがなければ死んでしまうもの。水、食料。極端な暑さや寒さを回避するもの。寝る場所。実のところ、生活するためには、これだけあれば生きていける。それ以外はオマケの社会奉仕だと思っている。

生存に必要なものがなければ死を待つのみ。それは水。どこにあるのか。川。地下水。人類は、川のそばに生活をして文明をつくってきたし、なければ井戸を掘った。塩も人間には欠かせない。海水から手に入れる。

食料はどこにあるのか。肉は動物。狩猟する。魚。海や川にいる。穀物や野菜は大地を耕し手に入れる。日本には四季があって、冬には寒くて食料が乏しくなる。だから、春から秋にかけて土地を耕し食料を得て、あらゆる手段を駆使して保存する技術をつくってきた。味噌や漬物は、現代に引き継がれる保存食の代表選手。肉や魚も保存するために燻製にしたり干物にしたりしてきた。

食料の保存は、余剰生産を可能にして富をもたらした。山に暮らす人間にとって塩は欠かせない必需品。海の民と山の民は、塩や魚と穀物や野菜を交換した。そのために道がつくられた。道は人と物を運ぶ血管だ。食料の保存は、持つものと持たざるもの、富む者と貧する者を線引きした。食料を生産する土地は、資源として奪い奪われ管理されるようになった。

その何千年も経った現代にぼくたちは生きている。3000年後とか、5000年後とか。その間に人間の生態系は変わったけれど、基本は変わらない。何千年前と全く違うライフスタイルのようにも見えるけれど、根本的に人間は変わらない。必要なものを手に入れて生きている。水、食料、衣類、家。手に入れられないモノは貨幣で交換する。そのために労働する。だから、高級車や便利で快適な家、豪華なレストランの食事ですら「生きる」という活動にとってはオマケの贅沢に過ぎない。けれども、オマケの贅沢が「芸術」だったりする。常に時代の最先端にある技術、贅を尽くした料理とその料理人の技術。

ぼくは、この現代社会で「生活」という行為を暴いてみたい欲望に駆られている。なぜなら、あまりにも支配されてしまっている。不自由な生活を強制されて、それを黙ったまま受け入れている。不自由なく、何でも手に入れられるオマケの贅沢生活を維持するために、ぼくらは不自由な世界に閉じ込められている。それでいいのか。生活は社会の中に円を描いて閉じている。出口が見えなくなっている。

人間は何のために生まれたのか。働くために生きたのか。否。労働は生きるためにあった。水を、食料を、家を手に入れるために。けれども、生きるために必要である最低限もモノは、3000年前に比べて簡単に手に入る。これほど、便利で快適な生活環境が提供された現代、ぼくたちの「暮らし」は飛躍的に進化しているはずだ。ところが、現実はそうでもない。何が狂っているのか。

<生活は社会の中に円を描いて閉じている>
この出口を探してみようと思う。音楽の歌詞、ボブ・マーリー歌うところの社会の矛盾に出口のヒントがあるかもしれない。経済学の本の中に答えがあるかもしれない。一枚の絵がこの無限ループを止めるかもしれない。誰も住んでいないような山奥に答えがあるかもしれない。川にあるかも、海にあるかも。少なくとも学校では教えてくれないし、答えは販売していないし、ダウンロードもシェアもできない。とにかく、ぼくは人間の幸福のために進化した生活を描いてみようと思う。この仮定を全面的に妄信して、仮定を事実に変えてみたい。2018年夏、魚も釣れないし、野菜も収穫できない自分が、これをやってみることで、生活は編集してつくることができると証明したい。

あまりに多く情報と真実の見えないメディア、サービスと商品の過剰供給に埋もれしまった「生活」を発掘したい。その進化した姿とはどんなものなのか。お金はなくても社会のインフラが崩壊しても生きていける基準を提示し、けれどもオマケの贅沢を極めた「暮らし」をしてみたい。

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