いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

貨幣価値を捨て、象徴価値を拾う【バベルの象徴】について

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生きるためには、働かなければならないと当たり前に考えられている。日本の社会では、お金を手に入れないと生きていけないと考えられている。しかし、そのお金は生きるためにではなく、商品やサービスに費やされ消えている。気がつけば、消費のための労働システムに巻き込まれている。

生きる目的は、いつの間にかすり替えられてしまう。

だから、何度でも問い直す。
だから、仕事を全部やめて、創作活動に専念することにした。自分が今まで仕事と呼んでいたモノコトをリセットした。当然、収入はなくなるので、アート作品を売って生きていこうと考えた。

どんなやり方があるのだろうか。
ぼくは、身の回りの友人知人が買える値段を設定して、作品に価値を与えてお金を手に入れてきた。もちろん、それだけで生活できるほどの収入にはならない。だから働くことについても考えた。

働くとは
親からは当たり前に会社に就職しろと言われる。だけどその仕事が一体何なのか、ぼくは考えてしまった。誰が幸せになる仕事なんだろうか。職種によって違うだろうが、貨幣経済を動かすための仕事はしたくないと思ってしまった。自分を追い詰めた結果、自分で仕事をつくるしかない。今のところ、まだサービスや商品になっていない、つまり貨幣経済が切り捨てた領域で、人の役に立つことを仕事にする実験をしている。そこでは新たな経済が生まれ、貨幣やそれ以外の価値を手にすることがある。

アート作品を売ること
アート作品を販売するにはギャラリーに所属して、売り上げのパーセントをギャラリーに収める。一体、この仕組のどこに価値があるのだろうか。

ひとつは、自分では販売できない層に売ることができる。ひとつは、自分の顔が出ないので作品の価値を高めることができる。これはひとつの手段だ。ぼくの場合は、人に頼むのが苦手で直接販売してしまう。だからと言って、作品をギャラリーに売ってもらうことを否定する気はまったくない。

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バベルの象徴について
銀座に新しくオープンするTOKYU PLAZAにショップをプロデュースする人が、作品を気に入ってくれ取り扱ってくれることになった。面白いのは、作品が幾ら売り上げるかではなく「銀座に新しくオープンするTOKYU PLAZAに作品が置かれた」という象徴の持つチカラだ。情報化が進んだ現代では、目の前の出来事よりも記号の方が圧倒的な価値を持つ。

愛知県津島市の長屋の改修で出た廃材を箱にしてゼロ円で展示した。その箱に魅力を感じてくれたプロデューサーが、注目を集める銀座のビルのお店に展示販売してくれている。ぼくらは、さらにこの箱をニューヨークのアートイベントに出展する計画だ。箱自体に価値はない。人から人へと出来事が展開し、勝手に物語が生まれてくる。

物語の過程に現れるいくつもの出来事に、貨幣以外の価値を発見することができる。拾うことも、また捨てることもできる。出来事の背景に潜む記号を再編集して象徴を創り上げる遊び。これを「バベルの象徴」と名付けた。


価値を何処に求めるのか。

ぼくは生きること自体が芸術活動だと考えている。宮本武蔵は「日常は戦場で、戦場は日常だ」と説いた。
だから、働くことと休日の境界線も、「つくる」と「つくらない」の境界線もない。

先日、拾った鉢に草を貰おうとお寺に行って「草を取っていいか」と聞いたところ、無造作にスコップで掬った草を鉢に入れてくれた。その美しさ。その人は「自然の美しさは無作為」だと言った。

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たくさんの人に価値を伝えるには、象徴を組み合わせ積み重ねて、バベルの塔をつくれば響き渡る。しかし、それでは、目の前に起きている出来事に価値を与えることはできない。拾った鉢に植えられた草の美しさを言葉や記号で伝えることはできないが、それを目の前に差し出すことはできる。

人生も、芸術作品も、労働も人と人の間にしか存在させることしかできない。人との繋がりの間にある溢れ落ちていく価値を見失なってはいけない。どんなに象徴価値を積み上げても、それは特定のゲームの中での話。目の前の言葉にならない美しさには及ばない。

 
夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/