いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記

今朝は昨日の日記を英訳することから始めた。英語をもう少し使えるようになりたい。書くこと。話すこと。聞くこと。読むこと。

今日は薪を運ぶと決めていた。山の木を伐ってもみんな処分に困っている。ぼくは薪ストーブと薪風呂があるからむしろ必要としている。

山から木を運んで、薪ストーブのサイズに切り揃えていると、お世話になっているクルマ屋さんが訪ねて来た。知り合いが木の処分に困っているという。行ってみると庭のヒノキを倒してあった。軽トラックで行ったので積んで帰ってきた。整理する木は倍になってしまった。仕事は増えたけれど、しばらく木を探す必要はなくなった。お金を掛けないということは、労働で対価を支払うことになる。

午前中に木を運んで、午後は3時まで薪割り。ほぼ一日を薪に費やした。これがぼくの暮らし方。思い付いたらメモすると、次にやるべきことも見えてくる。週末のトークの資料を夕方までに完成させよう。トークの原稿を一気に書いて、それを章ごとに分割して見出しをつける。次は見出しをガイドに時間を確認しながらフリートークする。このやり方は本づくりに応用できそうだ。これが片付いたら読書。

昨日メモ帳を買ったので何か書こうと考えていたけど、書こうとすると何も出てこない。そういえば、今日チフミが木を運んでいる姿が面白かったから、それを木彫するイメージをスケッチした。ぼくの創作は日々の活動に源泉があるらしい。

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今朝は昨日手に入れた木の整理。ウチでは燃やす燃料になるので、ヒノキよりも、ナラ、クヌギ、カシなどの広葉樹が嬉しい。木の知識も燃料にする薪づくりも、どれも炭焼きから学んだ。

午後は、蓮池のレンコンを掘った。数日前にやったら、池の泥の奥深くに刺さっていて、掘り返すのに苦労した。Youtubeで予習してやり方を検討して再び挑戦した。レンコンの収穫は重機や放水などの道具を使う場合が多く手堀りの情報はあまりみつからかなった。簡単ではないことは分かったので、まずはひとつ連なった完全体を掘り出すのを目標にした。

理想をイメージできれば結果は違う。重労働には変わらないけれど、レンコンを収穫できた。みのり豊かなランドスケープアートがここに誕生した。

放棄された田んぼを池にして、蓮の苗を植え、蓮の花を咲かせ、それを絵にした。冬はレンコンを収穫して食べることができる。生きるための芸術。蓮シリーズ。これは大地のアートであり、食料であり、絵画でもある。

ぼくは知らなかったけれど、モネは庭を作って睡蓮の絵を描いたそうだ。

英訳演習日記

来年は海外と仕事したいので、英語の勉強を再開した。SNSや日記を英作文する。英語の記事を読む。英語字幕でNetflixを観る。あとオンラインの英会話をやれば学習は習慣化する。

 

朝遅めに起きた。8時。雨が降っているので炭焼きは延期。朝ごはんにトーストとコーヒー。身体のメンテナンスでストレッチをしようと準備をはじめたら炭焼きの師匠が来た。

I wake up late today 8 o'clock. It was rainy day. So Making charcoal work was postponed. I took toast and coffee as breakfast. When I was about to stretch, Making charcoal master came my home.

師匠と打ち合わせ。今年伐採する場所は何処にするか。金曜日に山で伐採する予定になった。師匠頼りのことが多いので自分がやる仕事を増やしたい。

I had meeting my master about where we cut down trees. It was decided we are going to do friday. I entrust so many task to master, so I would like to do more task by myself.

師匠が帰って、手元にある「紙二千年の歴史」を読む。紙というメディアも岐路に立っている。それでも紙は無くならないし、書くという行為も普遍だろう。楮から紙を作ったから興味が溢れてくる。思い付いた。ノートへのメモを再開しよう。これもまた原点だ。免許を失効して再取得するために勉強をはじめたとき、考えていること、アイディアをノートに書くようになって、そこから自分の活動がスタートした。

After master went back, I read a book "History of paper two thousand years". The paper stands at a crossroads too. Nevertheless paper doesn't disappear and  people will cotinue to write universally. I made a paper kozo trees, so my interesting overflow about the paper. I came up with an idea.  I will restart to write a note. This is my origin. When I lost drivers license, I restarted study to get it again. I remebered it. When I started to write about my though, idea, sketch, it was beginning of my activities.

アーティストやアートということ以前に、「自分の活動」をしている。それは自分を活かし動かすこと。

I'm doing my activities before to be an artist and art. It is to move myself.

トークの原稿を書いた。してきたこともしていくことも、人生というタイムラインの上に並んでいる。そしていつかは死ぬ。とてもシンプルなこの法則を忘れてはいけない。

I wrote speech manuscript. Here, past and future, presence are line up on time of life.

午後は陶芸家の先輩の展示にお世話になっているギャラリーいわきに行った。先輩は変わらずいい作品をつくっていて元気だった。妻と相談して土鍋の作品を買った。ギャラリーいわきは、誰でも声を掛けてくれ、コーヒーに呼んでくれる。今日もテーブルを囲んで話題は骨董から魯山人に。

I went to gallery Iwaki which we work together exhibit pottery artist Maki's works. Mr Maki made very good potter works. So he looks very healthy and fine. My wife bought his earthenware pot. The gallery is very kind always surved coffee and talking with visitor at a table. Today's topic were about antique and Rosanjin.

ギャラリーに行く途中、ノートを買った。もっと書くということに取り組もうと思った。妻には続かないと笑われている。

I was on the way to the gallery, l bought a notebook. I would like to start sketch about some ideas. But my wife is laughing that I will give up it soon.

トークの原稿を書きながら、最近人と会って話すなかで、自分が目指していた地点にいま立っていることに気がついた。何かを表現して生きたくて、その環境を作るために走ってきた。だから、今からまたスタートするために日々に聴こえる自分の声に忠実であるべきだと思う。自分がしたいことを自分が分かっているべきで、だからこそ、周りの人に提案できる。自分がしたいことをすることが周りの人を幸せにする。

When I'm writing speech manuscript and I met people to talk, I noticed standing where I have been wanted to go destination now. I would like to express something, I kept to make environment to do it. Therefore to start again now I think I should hear my voice of everyday to become faithful. I should know what I want to do, so I can propose where should go. I do what I want to do things make happy around myself.

ギャラリーで話しているとき、次を何したいか聞かれて答えた。

「炭を作ったので、ふいごで鉄を溶かして制作したい」

When I'm talking at gallery, someone ask me "what do you want to do next?" I said "I made charcoal so I would like to melt iron by bellows."

ネットで箱型のふいごを探したけれど見つからなかった。妻に報告したら作ればいいと言われた。そうなんだ。それを作るのがぼくの作品を生み出す。

I was looking for box bellows but I couldn't find it. I told that my wife. She said you should make it. That's right. When I make things, it will be art works.

自作自演の生活芸術記

展示の搬入を終えて1週間が経った。猛烈に本が読みたくなって図書館へ駆け込んだ。頭の中に読みたい本をイメージして、本の背表紙を眺めて彷徨うのが楽しい。自分の制作の最前線として紙を制作したのでいくつか紙に関連した本を借りた。

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「紙二千年の歴史(ニコラス・A・バスベインズ)」を読みながら頭のなかでは、紙を使ってどんな作品をつくるか、というアイディアが渦巻いている。たぶんスケッチなんかをして手を動かせば、カタチが見えてくるかもしれない。

でも何よりも、思考の軌跡みたいなものを言葉でスケッチしたい。たぶん、これがぼくの表現の原点にあるものだろう。

この本のなかでも、日記とスケッチは一章割いて取り上げられている。レオナルドダヴィンチは紙にそのアイディアを言葉と図で残している。ダヴィンチは、モナリザに代表されるような絵画は極めて少なく、むしろこの大量のメモによって後世に知られる人となっている。

紙を作ることで、新たにテーマが与えられ、それをどう表現していくのか、それが何を伝えるのか、自分自身まだよく分かっていないけれど、この紙という歴史の古い、人類の発展に貢献してきたモノへの興味と興奮がある。

この一週間何をしていたのか。紙について本を読みつつ、いくつかの仕事をした。北茨城市の移住とキャンプをテーマしたオンラインミーティング。大学の恩師の講演のチラシ作成、バンドの次の展開へのミーティング、個展に関連したワークショップのための準備。

昨日からサーフィンの先輩が北茨城に来て、今朝は海の様子をチェックしつつ、別件のミーティングをした。

思い出した。先週はお寺の住職さんとのミーティングもあった。檀家さんに配る冊子に寄稿して欲しいとの依頼だった。御礼にお米3kgを貰った。住職さんの話は、子供のころからお坊さんになりたかったけれど、大人に信じてもらえなく、大学を卒業して普通に就職して、夢を忘れられなく、天台宗の一般公募に毎年応募するも落ち続けて、どうしてもお坊さんになりたいと電話したら、修行するお寺を紹介してもらった、というエピソードがよかった。

サーフィンの先輩は、北海道で計画しているプロジェクトのお誘い。ほんとうに丁寧に数年に亘って声を掛けてもらっている。水に関する開拓プロジェクト。北茨城での桃源郷の取り組みも見てくれている。絵画も制作するけれど、いまは大地に関心がある。目の前に景色をつくること。

今日の午後は、蓮根の収穫をしてみた。去年は地中に深く潜り込んでて数個で諦めたけれど今年も再挑戦。やっぱり深く潜り込んでて、簡単には掘り出せない。数個収穫してやり方を調べてみた。蓮根は掘るのが難しく現在は、ショベルカーを使ったり、水圧で泥を掘ったりして収穫している。機械を使わない方法は、見つからなかったので、改めて挑戦してみることにした。掘るのが難しいと言っても30分で、2、3回料理する量の蓮根が採れるのだから、こんなものなのかもしれない。人間は苦労してモノを作り出してきた。

この二年くらいは、大地に根を張った植物のように暮らす環境を作ってきた。そろそろ動き出すときが来たと感じる。植物と動物について。

してきたことが交錯して並んでいる。それらからまた先へと広がる仕事が見える。岡倉天心がやはり興味深く「東洋の思想」の新訳解説付きを読んでいる。日本は中国だけでなく、インドからも影響を受けている、と。なるほど。だから「アジアはひとつ」の出だしではじまる。この先、中国、韓国では滞在制作したい。必ず。

バンドのミーティングで、メンバーの宮下が「これは仕事じゃないから、遊びなんだから好きにやろう」と言っていた。しかしもうぼくには仕事と遊びの区別が完全に消失している。お金が貰えるかどうかが基準でもないし、誰かに頼まれたかどうかでもないし。例えば、土曜日に友達のライブを観に行った。これは完全に遊び。だからバンド活動はどちらかと言えば仕事=作品を制作するものとしたい。バンドは遂にレコーディングする計画に動き出した。

明日から炭焼きがはじまる。けれども天気予報は雨。明日の予定は明日決まる。これが日常。何をしているのか分類できないけれど、していることすべてが毎日表現している生活芸術。ぼくが作った生活環境での出来事。

 

「ここにある- COCONIALISM」檻之汰鷲(おりのたわし)個展

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夏頃だった。個展の誘いを貰った。話を聞くと、中学校の空き教室にギャラリーを作って、そこで年に一回作家を招いて展示をしていると言う。とくに興味を惹かれたのが中学生に向けて展示することだった。それからこの水戸第一中学校内の「ひのたてギャラリー」は美術関係者や愛好家たちによって運営されていて、その人たちがぼくら夫婦、檻之汰鷲の活動を見て声をかけてくれたも嬉しかった。

ぼくは常にコンセプトを作りながら活動をしてきた。生きるための芸術にはじまり、サバイバルアート、生活芸術、そして現在進行形であるココニアル。ココニアルとは、日本語のここにあるで、そこにあるものを利用して制作する姿勢を意味している。また植民地を意味するコロニアルの反対語で、よその土地からやってきた者がそこにあるものを搾取、利用するのではなく、モノや環境、自然そこにあるのもが等しく協働する理想的なバランスを指し示す造語でもある。

ココニアルの探究として、今暮らしている里山に楮(こうぞ)が自生しているのみつけて、伐採し煮て皮を剥いて和紙をつくる準備をしていた。アート作品の素材がどこからやってきて何処へいくのか、その来歴に責任を持つ制作をしてみたかった。どこまでやれるのか。つまり100%自然由来の究極のサバイバルアートである。けれどもそんなに大袈裟な言い方をしなくても、そもそも人間は自然を最大限利用して道具やモノを作ってきた。だからぼくの目的は、現在に伝わる完成した精度の高い和紙を作ることではなく、和紙を作りはじめた頃の試行錯誤も含めて追体験したかった。人間そのものをやり直すと言うこともできる。

紙の歴史は、よく知られるのはエジプトのパピルス。紀元前3000年に遡る。けれどもパピルスは「紙」の製法とは異なるため、紙と呼べるものが発明されたのは、中国で紀元前2世紀と言われている。紙以前は、パピルスのほか、羊皮紙、粘土板、木簡、竹簡が使われていた。今回の展示には粘土板も制作した。

正解に最短距離で到達するのが目的ではない。途中、楮ではなく自分で育てた真菰を使ったりもした。真菰も紙になるという記録を読んだからだった。けれども上手く紙にならず、楮に再び取り組んだとき、なぜ楮が紙になったのか実体験として直ちに理解した。繊維が違った。現在は繊維を機械でバラバラにするが、それも目的と違うので、いろいろ調べたところ叩いて粉砕することが分かった。 

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そして粉砕した繊維を紙にするには、やっぱり「漉く」という作業が最適解だと分かった。こうして身の回りのモノを利用してアートの基本的な材料である紙を作れるようになった。それが展示の3日前。ギリギリだった。

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さて紙はできた。次はそれに描くための素材を作る計画だ。膠をつくり、薪ストーブの煤と混ぜて墨をつくる。黒色をつくること。膠は動物の骨や皮を煮てつくる。本来なら動物から皮を剥ぐべきだが、チカラ及ばずで、あれこれ調べた結果、犬のおやつが牛皮だと突き止めた。それを煮て膠を制作した。犬を飼っているので100歩譲ってアリにした。

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今回の展示の舞台は中学校だから、話しを貰ったとき、ここにあるものをすぐに閃いた。学校の机で版画をやろう。そのアイディアを究極に突き詰めたのが和紙づくりと墨づくりだった。

学校の机を削って、すべて素材が揃ったのは展示搬入の前日。締め切りは素晴らしい。こうしてぼくらは「ここにある」をカタチにした。もちろん、これは展示の一品でしかない。ほかにも、手作りしたアイルランド式の舟、その舟で見た景色、ギャラリーアトリエにしている古民家の襖に耕作放棄地に種を蒔いて景色を作って咲かせたコスモスの絵。ここに檻之汰鷲(おりのたわし)の最前線を展示した。

ぜひ水戸第一中学校に足を運んで鑑賞して頂けると幸いです。作品は鑑賞されて成長する。ぼく自身も制作しながら自分自身が制作されていく。こうして言葉にすることで、ぼくは歩いてきた道を地図を広げて眺めるように、次へと進む道が見えてくる。

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檻之汰鷲個展

Orinotawashi solo exhibition
「ここにある- COCONIALISM」

2022年12月5日〜2023年2月3日
ひのたてギャラリー(水戸第一中学校内)

開館時間:平日午前9時〜午後4時30分
*入館は午後4時まで。土曜日は正午まで。
*休館:日曜日
*来館には電話予約が必要
080-4782-4321(会期中のみ)
*冬季休業12月24日〜1月9日

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フェスティバルを作った記録 音ノ森

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約1ヶ月間、ここに書くことができないほど動き続けていた。ほんとうに走り続けた。20年前から続いてきたバンドNOINONE主催の野外イベントを11月26-27日に茨城県城里町で開催した。そして12月5日からの個展に向けて準備してきた。蒔いた種の収穫期が同時にやってきたようだった。

野外イベントはぼくが20代からしてきた仕事だ。けれどもアート制作を生業にするために40代を前に卒業して、それ以降はフジロックでバーをやる程度だった。

2022年11月はぼくらのバンドにとって特別なタイミングで、それは20年前にメンバー多賀雄樹が27歳で死んだ月。だから数年前から野外イベントをやりたいと現在のメンバーと当時からの仲間たちと話していた。

ぼくのアート制作の手法は「そこにあるもの」をテーマにしていて、そこにあるものをきっかけに着想して作品にしていく。今回のイベントもまさに同じ手法だった。アート作品を制作することとイベントをやることは同じつくり方になっていた。だからここに記録しておく。20年の時の流れの集成として。

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まず場所も中身もないところから春頃にイベントを野外でやるということだけが決まっていた。

ぼくが北茨城市に引っ越したのをきっかけにバンドは東京との中間点である水戸の仙波山スタジオでたまに練習していた。このスタジオはドドイッツという妖怪ファンクバンドの首謀者うんけんが経営していて、うんけんも学生時代からの友達で亡くなったぼくらのメンバーとも仲が良かった。

仙波山スタジオで泊まりの練習した翌朝に温泉に入っていたら知り合いに遭遇した。キャンプ場を経営している海老沢さんだった。海老沢さんはぼくらのバンドに興味を持ってくれスタジオに見学に来てくれ、そして「いいバンドですね、うちのキャンプ場でイベントやりましょう」と言ってくれた。

それが城里町にあるフォレストピア七里の森だった。海老沢さんが仲間たちと放棄された場所を再生してきたキャンプ場だった。ぼくはここに七芒星のランドアートをキャンプファイヤースペースとして制作させてもらっていた。

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だから水戸方面に縁はなかったけれど、この偶然の波に乗らない手なはいと会場を七里の森に決定して、早速ドドイッツに声を掛けた。

ほかにも今回のフェスをやるなら誘うべき人がいた。亡くなったメンバーもよく知っている、年間を通して大小様々なフェスを制作しているぼくのフェス仕事の先輩、鈴木シンヤに声を掛けた。

シンヤくんに場所の説明をすると「実は水戸のスタジオにむかし使っていたスピーカーを保管してもらってて、そのままになってて申し訳なくて。そのスピーカーを復活させたい」と言った。

ぼくは「そこにあるもの」を使って作品をつくってきた。だからスピーカーを復活するのも面白いと思った。何処にあるのか聞くと、なんと仙波山スタジオに保管してあると言う。すぐにうんけんに連絡すると「あるよ。兄貴が持ってきて、そのままになってるよ」と。

スピーカーはモノリスという90年代に輸入され野外イベントで使用されてきたものだった。ぼくが学生の頃、イベントでアルバイトをしてたときこのスピーカーを運んだことがあった。まさかそのスピーカーを復活させることになるとはますます面白くなってきた。

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シンヤくんと音響のプロ三浦さんに来てもらい、仙波山に眠っているモノリスを鳴らしてみた。少し壊れている箇所があるけどスピーカーは生きていた。ぼくは妻とスピーカーのコーンを補修して色を塗り直して、アンプは新橋に住んでいる機材修理の友人宅に持ち込んだ。

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偶然が転がって折り重なって、90年代のスピーカーを復活させフォレストピア七里の森というキャンプ場でフェスをやることが決定した。

出演者も同じようにあちこちから集まってきた。シンヤくんがマネージメントしているThe Factors、ぼくのバンドのドラムのトリッキーが遊んでいる新宿2丁目のバーを経営するシゲさんのバンド、ザ•バッキャロー。死んだメンバーの息子でぼくらのバンドでギターを弾くコタロウのバンド、ヒョーカ。ぼくの大学の先生で社会学者の上野俊哉。有名ではない、それでも繋がりある人たちがラインナップされていった。

どうしても外せないのが、DJ HI-GOとERAさんだった。ぼくが学生の頃出会ったDJでHI-GOさんはミュージシャンとしての活動では日本で最初のインディーズレーベルと言われるゴジラレコードを立ち上げミラーズというパンクバンドを70年代の終わりにやっていた。フリクションの前身バンドやスターリンでベースを弾いていたこともある。ヒゴさんは90年代初頭にイギリスでのサウンドインスタレーションを手掛けたのをきっかけに渡英し、そこでレイヴを体験する。ぼくは90年代半ばにヒゴさんと出会い、そのカルチャーを教えてもらった。

ヒゴさんは集客を目的としないパーティーをよく開催していた。山奥の山小屋にサウンドシステムを持ち込んだり、登山口で小規模な数人が遊ぶだけのパーティーをやったりしていた。

それは何か。それはシンプルに音で遊ぶ。だだそれだけのための行為だった。

だから11月に開催したフェスもそれを目的にした。遊びに来た人が音で楽しむこと。そのための快適な環境をつくること。ヒゴさん、エラさん夫妻も出演を快諾してくれた。

それから2000年代にぼくが一緒に仕事をしてきた兄貴であり師匠でもあるブライアンバートンルイス。そして俳優の浅野忠信とゆっちゃん、すぐるくんのバンドSODA!も誘った。ぼくは一時期浅野さんの音楽マネージメントを担当していたことがあってとても影響を受けている。あるときぼくがボルダリング やりたいんですよ、と話したら、なんでやらないの?と言われて目が覚めたことがあった。その日すぐにボルダリング ジムに電話して入会した。どうしてやりたいことをやないのか。そんなメッセージを貰った。以来思い付いたことは実行してきた。

茨城で最初に友達になった長山さんにはフードの出店を集めてもらった。水戸で人気の元町ブルワリーやイタリア料理、カレー屋さん、ピザ屋さんが出店してくれた。

ぼくが活動拠点にしている北茨城によく遊びに来てくれる音楽家のSINSENも誘った。ハイブリッドカーで発電して音響や照明をやる渡辺さんにも照明で参加してもらった。

最後の最後にシンヤくんから地元の人を誘った方がいいとアドバイスを貰って、Sekiさん、ECKOZもDJに加わった。

オープニングにはイベントやると決まった春に即やりたいと声を上げてくれた20年来の仲間ツバサがDJしてくれた。それから亡くなったメンバーのお通夜で出会い結婚した和田くんとあさこのライブユニット和田夫妻。

ラインナップがすべて揃ったのは、浅野さんのバンドSODA!が撮影スケジュールの仮押さえの都合で開催の3日前だった。そんなギリギリで意味があるか迷ったけれど、NOINONEのメンバーが待とうと言ってくれ、結果決まったのは最高に盛り上がった。遊びに来てくれる人へのギフトになるからそれでよかった。

偶然というものは、それが目の前に現れたときすでに必然で、それを集めれば、そうしかなりようのない強固なエネルギーになる。

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会場設営もプロたちが少ない打ち合わせにも関わらず即興的に配置してモノリスが立ち上がったときは圧巻だった。2001年宇宙の旅のあの壁から名前を戴いている存在感にそこにいるみんなが言葉なく感動した。ぼくも妻とこれまで作ってきた旗をステージに飾ることができた。屋外に展示すること、その規模に耐える作品をつくることも檻之汰鷲のひとつの目標だった。

始まってしまえば、あっと言う間の奇跡だった。

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11月末だというのに快晴で暖かくぼくは半袖で過ごしたほどだった。ラモーンズのTシャツを着ていたら、10代の男の子が話しかけてくれ「ぼくもパンクが好きです。TheJamのTシャツを着ています。ブルーハーツが好きです。バンドをやりたいけど楽器をやっている友達がいなくて」と言うので「はじめはみんな楽器やってないから友達に楽器やらせればいいよ」と答えたら、嬉しそうに友達のところへ走っていく姿が印象的だった。

イベントは高校生以下無料、27歳以下は割引きにしていたので、若い子も遊びに来てくれた。高校生二人がおばあちゃんに連れてきてもらってはじめてのキャンプ、はじめてのフェスを体験してくれたのもよかった。

音響を担当した三浦さんのサウンドが素晴らしくどのバンドも最高のパフォーマンスで、2日目のHI-GOさんのDJで復活したモノリスから鳴る音で踊りながら涙が出た。お客さんのなかにも、これがモノリスですか!と注目してくれる人や90年代スピーカーの音が好きだという人もいた。

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11月27日の15時30に音が止まり、ヒゴさんのDJへの拍手と共に音ノ森への称賛でパーティーは終了した。たしかにこの2日間、ぼくらの仲間である多賀雄樹はここにいた。20年の時を経てぼくらは一緒に踊った。

パーティーが終わったらすぐに撤収がはじまる。これはプロの仕事。すべてが早かった。けれども自分は二日間に渡って荷物を運んできて点在しているモノの回収と、モノリスを仙波山スタジオに返却する仕事があった。モノリスは重たいスピーカーで少なくとも大人の男3人は必要だった。遊びに来てくれた人も手伝ってくれスピーカーを積み込んで17時になって、これから仙波山スタジオを積みおろしはどう考えても厳しく思えた。東京から来た仲間は翌日仕事がある人ばかりで早く帰る必要があった。だから今日はもう終わりにます、と解散にした。疲れ切っていたので残りは明日やるし、きっとなるようになると、みんなに伝えひとりキャンプ場に泊まらせてもらった。

その夜、ぼくはこのまま死んでしまうのではないかと思うほどの満足感だった。繋がる人たちが集まって、まるでお葬式のように思えた。

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というのも父がこのフェスに遊びに来て、もうすぐ死ぬだろうから、俺と連絡取れなくなったらここに電話してくれ、と弁護士の名刺を渡してくれた。父とは大学進学を巡ってケンカをしてぼくは家出をして疎遠になっていたが、ぼくが20代の半ばのころガンになって死ぬかもと連絡を貰って会いに行き、それから数年に一回は会うようになっていた。そして今年またガンになり、けれども今回のガンはアスベスト由来で父が若い頃に仕事場がアスベストで作られていたらしく、慰謝料がたくさん支払われたと教えてくれた。父は本を出すのが夢で、本の目次をプリントアウト持参してくれた。だから父の本を作ることで最期の親孝行ができるかもしれない。眠りながらそんなことを考えた。

翌朝はすっきり目が覚めて、キャンプ場に点在している荷物を片付けて、妻チフミが来てくれて、とりあえず仙波山スタジオに行ってみようと向かった。

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出演してくれたSinsenが朝に、スピーカー下ろすの手伝うよ、と電話をくれたけれど、なんとかなるかもだから、ダメだったら連絡すると感謝した。

仙波山スタジオに着くと、うんけんの奥さんが来て、今からパパが来るからと教えてくれた。ドドイッツのメンバーもいて、まるで待ち合わせしたかのようにスムーズにモノリスを下ろして倉庫に収納してほんとうにパーティーが終了した。

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はじめから終わりまで、こんな感じですべてがハマって転がっていった。ぼくが今回野外フェスを主催することになったのは運命だと思っている。必要な経験として。

ぼくは将来アートフェスをやりたいと企んでいる。アートキャンプ。野外に作品が展示してあり、マーケットのように作品が陳列販売されている。たぶん今回の経験が役に立つ。人生はタペストリーのように織り重なって編まれていく。これを記録しておくことで、次へと繋がっていく。その道標としてここに記す。そして翌日から個展の制作に没頭した。

 

 

 

 

アートとは何か。毎日の生活のなかにあるモノ。

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妻に人生って何だろうね、と聞かれて答えた。時間が流れていく、その瞬間ごとにしていることだよね。そのしていることが楽しいと感じられるならそれが幸せだよね。

有名になるとか、売れるとか、金持ちになるとか、それとは違う仕事や表現、遊びを創作したい。つまり、直結して誰かの人生を豊かにするような。自分や他者を削って成立するのではなく、搾取する構造を再生産しない道を拓きたい。もちろん自分もその渦に飲み込まれているし、そのポジションは経済的には不利でもある。けれどもここを突破しないと次の時代が見えてこない。

アートキュレーターに檻之汰鷲さんのアートは、いわゆるアートではない、と言われて痛快だった。けれども確かにそこに表現はあって、それは我々の課題でもあるという話だった。

つまりアートとは何か。アートがアートのためのアートだったらキュレーターさんも満足したのだと思う。しかし意味を問うとき、コトバは何も返答しなくなる。沈黙し空虚になる。まるで器のように。だからその側面を逡巡することになる。

アートは明治時代に輸入されたコトバ。翻訳語として芸術という漢字が与えられた。それ以前とそれ以後に分断された。アートというコトバはそれ以前を伝える術を持たない。

日本のアート輸入以前は、それぞれの表現があった。版画、書道、茶道、日本画は西洋画に対抗して作られた。岡倉天心は、アート輸入以前の表現を茶の本に著した。

日本は東洋。どちらかと言えば、西洋よりも中東に近い精神性があるように思う。イスラム教は偶像を崇拝しない。無、ヴォイド、虚を知っている。岡倉天心茶の本に託したアート以前のスピリットには、虚空の思想が伝えられている。生活そのものを芸術にしようとする秘伝。

生活とは毎日のこと。何をして何をしないのか、人生の瞬間を選択し構築していく。毎日の景色のことだ。どこで誰と何をして生きていくのか。何を見るのか。何を聞くのか。何を口にするのか。コトバだけではなく、毎日食べるもの。それが目の前の大地が育んだ野菜であれば、その人は大地と共に暮らしていく。自然とどう向き合って毎日をつくるのか、それを創案することがこれからのアートだと提案したい。

だからぼくは大地に種を蒔き、花を咲かせ絵をつくる。ぼくの周りにある表現を分け隔てなく並べて、それぞれが輝くようにイベントをつくる。

お年寄りの三味線や尺八、沖縄の歌を練習中の人の表現、子供のダンス、歌い始めたばかりの未完成な歌。

それらを未満として切り捨てるのではなく、それらの表現が成立する環境を用意すること。それもアートの成せる技。もし有名な歌手、ヒットした歌、技巧的に優れているなどしか評価できないのなら、それは生きているアートではない。死んだ値札の付いた商品だ。キュレーターはそれに気づいている。けれども優劣の眼差しをなくしてしまえばすべては無に還ってしまう。それを知っている。だからぼくの前に線を引いて言う。それはアートではない。

だからぼくは喜んでこの道を拓きたい。未だアートになっていない、生きるための芸術という道を。この話を英語で、海外で話せるようにする。それが次の目標になった。道は続く。生きられる時間が一日減って、生きた時間が一日増える。

文章を書くのは現在地を把握すること

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時間は過ぎていく。今は瞬間で過去になる。今は過去になることを常に継続している。ぼくも常に過去になる。生きているから今を過去に送りつつ常に新しくなる。

朝起きて妻と話しながら、桜の樹を掘り出すことにした。スコップと鍬を軽トラックに積んでキャンプ場予定地に行った。キャンプ予定地の木は整地され伐採される運命。たぶん。それを心配した澄子さんに桜の移植を頼まれた。週末にはバスツアーの見学者たちに桜の植樹体験プログラムもあって、先週まではユンボとユニックを持っている緑川さんに依頼するつもりだったが、現場を下見して自分たちでやれると判断した。

自分でやれば、それを経験できる。自分でやれば待つこともなく、予定を誰かに合わせる必要もない。その経験はまるごと自分のものになる。

桜の樹を2本根っこから抜いた。根は神経のように大地に張り巡らされている。2年前は桜の木をどう取り扱ってよいのか分からなかったけど、今は少しは理解できるようになった。これが経験というものだ。

午後には地域の老人サロンで、ガーランドづくりをやった。この旗は北茨城市に移住して地域の人たちとコミュニケーションするために考案したアートプログラムだった。予想外に子供からお年寄りまでが参加できるツールになった。旗に絵を描けば、それがそのまま飾られてギャラリーになる。

夜は、北茨城で予定しているイベントの看板づくり。これは依頼されたもので、流木を拾ってきてLamp Lightsという文字を作っている。

12月には個展が控えていて、11月末には野外イベントも予定している。どれも、ずいぶん長いこと取り組んできた活動の成果だから手抜きできない。

夕方に炭焼きの師匠から電話があった。今季の炭焼きの山を下見に行く約束をした。実は炭をつくるよりも、薪を売った方がお金になる。現状は、手間をかけて薪を炭にして時間と体力を費やして、金銭的な価値を下げている。けれども、ぼくは炭焼きがやりたかった訳で、最初からお金が目的ではない。炭焼きという行為は人間の原始の営みに根を張っている。土と火と水を操る原始の技術がここに眠っている。ぼくはゆっくりと原始から進化をしている。炭焼きは土器づくりへ発展し、やがて陶器へ向かう。

自分が何をしているのか知るために言葉に書き表す。言葉の向こう側を忘れないように読書をする。いまはベルクソンを読んでいる。「時間と自由」、「創造的進化」あとドゥルーズベルクソン論「ベルクソニズム」。

久しぶりに理解できない文章を読んでいる。日本語なのに何が書いてあるのか、何を指しているのか分からない。言葉が先にある訳ではなく、何かの現象や体験があって、それに言葉が与えられている。だから、言葉はそのものを指し示さない。例えば、はじめて体験することの中身をぼくたちは知ることはできない。でもその体験が言語化されれば、その体験を説明されるて理解したような気になってしまう。言葉はまるで口裏を合わせるように後から意味を一致させるだけのこともある。

ぼくは1日の活動の何が価値あるものなのか計ることができない。どれも必然的に起きていて、そのなかの何かがぼくを予期しなかった未来へと繋いでくれる。生きるとは漠然と全体が生命活動になっていて、そのうちのいくつかが、まったく違う価値へと接続されて、予想外の方向へ転がっていく。例えばぼくが今日したことの何がアートで、どれが作品になるのか、ヒットするのか、お金になるのか、そんなことは問題ではなく、ぼくが何かを作ろうとしている、その活動の中から、いくつかが世間でいうところの芸術というコンセプトにリンクして、なるほど確かにこれはアートだと理解されるだけで、全体は漠然とした生きるためにしている日々の活動なのだ。

そんな活動を続けていく、ある日に、手のなかに作品が握られていたり、作品が目の前に転がっていたり、頭のなかに鮮明に作品のイメージが浮きあがっていたりする。そうやって作品が生まれてくる限りぼくは、純粋にそのカタチを取り出してみたい。