いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

フェスティバルを作った記録 音ノ森

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約1ヶ月間、ここに書くことができないほど動き続けていた。ほんとうに走り続けた。20年前から続いてきたバンドNOINONE主催の野外イベントを11月26-27日に茨城県城里町で開催した。そして12月5日からの個展に向けて準備してきた。蒔いた種の収穫期が同時にやってきたようだった。

野外イベントはぼくが20代からしてきた仕事だ。けれどもアート制作を生業にするために40代を前に卒業して、それ以降はフジロックでバーをやる程度だった。

2022年11月はぼくらのバンドにとって特別なタイミングで、それは20年前にメンバー多賀雄樹が27歳で死んだ月。だから数年前から野外イベントをやりたいと現在のメンバーと当時からの仲間たちと話していた。

ぼくのアート制作の手法は「そこにあるもの」をテーマにしていて、そこにあるものをきっかけに着想して作品にしていく。今回のイベントもまさに同じ手法だった。アート作品を制作することとイベントをやることは同じつくり方になっていた。だからここに記録しておく。20年の時の流れの集成として。

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まず場所も中身もないところから春頃にイベントを野外でやるということだけが決まっていた。

ぼくが北茨城市に引っ越したのをきっかけにバンドは東京との中間点である水戸の仙波山スタジオでたまに練習していた。このスタジオはドドイッツという妖怪ファンクバンドの首謀者うんけんが経営していて、うんけんも学生時代からの友達で亡くなったぼくらのメンバーとも仲が良かった。

仙波山スタジオで泊まりの練習した翌朝に温泉に入っていたら知り合いに遭遇した。キャンプ場を経営している海老沢さんだった。海老沢さんはぼくらのバンドに興味を持ってくれスタジオに見学に来てくれ、そして「いいバンドですね、うちのキャンプ場でイベントやりましょう」と言ってくれた。

それが城里町にあるフォレストピア七里の森だった。海老沢さんが仲間たちと放棄された場所を再生してきたキャンプ場だった。ぼくはここに七芒星のランドアートをキャンプファイヤースペースとして制作させてもらっていた。

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だから水戸方面に縁はなかったけれど、この偶然の波に乗らない手なはいと会場を七里の森に決定して、早速ドドイッツに声を掛けた。

ほかにも今回のフェスをやるなら誘うべき人がいた。亡くなったメンバーもよく知っている、年間を通して大小様々なフェスを制作しているぼくのフェス仕事の先輩、鈴木シンヤに声を掛けた。

シンヤくんに場所の説明をすると「実は水戸のスタジオにむかし使っていたスピーカーを保管してもらってて、そのままになってて申し訳なくて。そのスピーカーを復活させたい」と言った。

ぼくは「そこにあるもの」を使って作品をつくってきた。だからスピーカーを復活するのも面白いと思った。何処にあるのか聞くと、なんと仙波山スタジオに保管してあると言う。すぐにうんけんに連絡すると「あるよ。兄貴が持ってきて、そのままになってるよ」と。

スピーカーはモノリスという90年代に輸入され野外イベントで使用されてきたものだった。ぼくが学生の頃、イベントでアルバイトをしてたときこのスピーカーを運んだことがあった。まさかそのスピーカーを復活させることになるとはますます面白くなってきた。

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シンヤくんと音響のプロ三浦さんに来てもらい、仙波山に眠っているモノリスを鳴らしてみた。少し壊れている箇所があるけどスピーカーは生きていた。ぼくは妻とスピーカーのコーンを補修して色を塗り直して、アンプは新橋に住んでいる機材修理の友人宅に持ち込んだ。

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偶然が転がって折り重なって、90年代のスピーカーを復活させフォレストピア七里の森というキャンプ場でフェスをやることが決定した。

出演者も同じようにあちこちから集まってきた。シンヤくんがマネージメントしているThe Factors、ぼくのバンドのドラムのトリッキーが遊んでいる新宿2丁目のバーを経営するシゲさんのバンド、ザ•バッキャロー。死んだメンバーの息子でぼくらのバンドでギターを弾くコタロウのバンド、ヒョーカ。ぼくの大学の先生で社会学者の上野俊哉。有名ではない、それでも繋がりある人たちがラインナップされていった。

どうしても外せないのが、DJ HI-GOとERAさんだった。ぼくが学生の頃出会ったDJでHI-GOさんはミュージシャンとしての活動では日本で最初のインディーズレーベルと言われるゴジラレコードを立ち上げミラーズというパンクバンドを70年代の終わりにやっていた。フリクションの前身バンドやスターリンでベースを弾いていたこともある。ヒゴさんは90年代初頭にイギリスでのサウンドインスタレーションを手掛けたのをきっかけに渡英し、そこでレイヴを体験する。ぼくは90年代半ばにヒゴさんと出会い、そのカルチャーを教えてもらった。

ヒゴさんは集客を目的としないパーティーをよく開催していた。山奥の山小屋にサウンドシステムを持ち込んだり、登山口で小規模な数人が遊ぶだけのパーティーをやったりしていた。

それは何か。それはシンプルに音で遊ぶ。だだそれだけのための行為だった。

だから11月に開催したフェスもそれを目的にした。遊びに来た人が音で楽しむこと。そのための快適な環境をつくること。ヒゴさん、エラさん夫妻も出演を快諾してくれた。

それから2000年代にぼくが一緒に仕事をしてきた兄貴であり師匠でもあるブライアンバートンルイス。そして俳優の浅野忠信とゆっちゃん、すぐるくんのバンドSODA!も誘った。ぼくは一時期浅野さんの音楽マネージメントを担当していたことがあってとても影響を受けている。あるときぼくがボルダリング やりたいんですよ、と話したら、なんでやらないの?と言われて目が覚めたことがあった。その日すぐにボルダリング ジムに電話して入会した。どうしてやりたいことをやないのか。そんなメッセージを貰った。以来思い付いたことは実行してきた。

茨城で最初に友達になった長山さんにはフードの出店を集めてもらった。水戸で人気の元町ブルワリーやイタリア料理、カレー屋さん、ピザ屋さんが出店してくれた。

ぼくが活動拠点にしている北茨城によく遊びに来てくれる音楽家のSINSENも誘った。ハイブリッドカーで発電して音響や照明をやる渡辺さんにも照明で参加してもらった。

最後の最後にシンヤくんから地元の人を誘った方がいいとアドバイスを貰って、Sekiさん、ECKOZもDJに加わった。

オープニングにはイベントやると決まった春に即やりたいと声を上げてくれた20年来の仲間ツバサがDJしてくれた。それから亡くなったメンバーのお通夜で出会い結婚した和田くんとあさこのライブユニット和田夫妻。

ラインナップがすべて揃ったのは、浅野さんのバンドSODA!が撮影スケジュールの仮押さえの都合で開催の3日前だった。そんなギリギリで意味があるか迷ったけれど、NOINONEのメンバーが待とうと言ってくれ、結果決まったのは最高に盛り上がった。遊びに来てくれる人へのギフトになるからそれでよかった。

偶然というものは、それが目の前に現れたときすでに必然で、それを集めれば、そうしかなりようのない強固なエネルギーになる。

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会場設営もプロたちが少ない打ち合わせにも関わらず即興的に配置してモノリスが立ち上がったときは圧巻だった。2001年宇宙の旅のあの壁から名前を戴いている存在感にそこにいるみんなが言葉なく感動した。ぼくも妻とこれまで作ってきた旗をステージに飾ることができた。屋外に展示すること、その規模に耐える作品をつくることも檻之汰鷲のひとつの目標だった。

始まってしまえば、あっと言う間の奇跡だった。

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11月末だというのに快晴で暖かくぼくは半袖で過ごしたほどだった。ラモーンズのTシャツを着ていたら、10代の男の子が話しかけてくれ「ぼくもパンクが好きです。TheJamのTシャツを着ています。ブルーハーツが好きです。バンドをやりたいけど楽器をやっている友達がいなくて」と言うので「はじめはみんな楽器やってないから友達に楽器やらせればいいよ」と答えたら、嬉しそうに友達のところへ走っていく姿が印象的だった。

イベントは高校生以下無料、27歳以下は割引きにしていたので、若い子も遊びに来てくれた。高校生二人がおばあちゃんに連れてきてもらってはじめてのキャンプ、はじめてのフェスを体験してくれたのもよかった。

音響を担当した三浦さんのサウンドが素晴らしくどのバンドも最高のパフォーマンスで、2日目のHI-GOさんのDJで復活したモノリスから鳴る音で踊りながら涙が出た。お客さんのなかにも、これがモノリスですか!と注目してくれる人や90年代スピーカーの音が好きだという人もいた。

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11月27日の15時30に音が止まり、ヒゴさんのDJへの拍手と共に音ノ森への称賛でパーティーは終了した。たしかにこの2日間、ぼくらの仲間である多賀雄樹はここにいた。20年の時を経てぼくらは一緒に踊った。

パーティーが終わったらすぐに撤収がはじまる。これはプロの仕事。すべてが早かった。けれども自分は二日間に渡って荷物を運んできて点在しているモノの回収と、モノリスを仙波山スタジオに返却する仕事があった。モノリスは重たいスピーカーで少なくとも大人の男3人は必要だった。遊びに来てくれた人も手伝ってくれスピーカーを積み込んで17時になって、これから仙波山スタジオを積みおろしはどう考えても厳しく思えた。東京から来た仲間は翌日仕事がある人ばかりで早く帰る必要があった。だから今日はもう終わりにます、と解散にした。疲れ切っていたので残りは明日やるし、きっとなるようになると、みんなに伝えひとりキャンプ場に泊まらせてもらった。

その夜、ぼくはこのまま死んでしまうのではないかと思うほどの満足感だった。繋がる人たちが集まって、まるでお葬式のように思えた。

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というのも父がこのフェスに遊びに来て、もうすぐ死ぬだろうから、俺と連絡取れなくなったらここに電話してくれ、と弁護士の名刺を渡してくれた。父とは大学進学を巡ってケンカをしてぼくは家出をして疎遠になっていたが、ぼくが20代の半ばのころガンになって死ぬかもと連絡を貰って会いに行き、それから数年に一回は会うようになっていた。そして今年またガンになり、けれども今回のガンはアスベスト由来で父が若い頃に仕事場がアスベストで作られていたらしく、慰謝料がたくさん支払われたと教えてくれた。父は本を出すのが夢で、本の目次をプリントアウト持参してくれた。だから父の本を作ることで最期の親孝行ができるかもしれない。眠りながらそんなことを考えた。

翌朝はすっきり目が覚めて、キャンプ場に点在している荷物を片付けて、妻チフミが来てくれて、とりあえず仙波山スタジオに行ってみようと向かった。

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出演してくれたSinsenが朝に、スピーカー下ろすの手伝うよ、と電話をくれたけれど、なんとかなるかもだから、ダメだったら連絡すると感謝した。

仙波山スタジオに着くと、うんけんの奥さんが来て、今からパパが来るからと教えてくれた。ドドイッツのメンバーもいて、まるで待ち合わせしたかのようにスムーズにモノリスを下ろして倉庫に収納してほんとうにパーティーが終了した。

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はじめから終わりまで、こんな感じですべてがハマって転がっていった。ぼくが今回野外フェスを主催することになったのは運命だと思っている。必要な経験として。

ぼくは将来アートフェスをやりたいと企んでいる。アートキャンプ。野外に作品が展示してあり、マーケットのように作品が陳列販売されている。たぶん今回の経験が役に立つ。人生はタペストリーのように織り重なって編まれていく。これを記録しておくことで、次へと繋がっていく。その道標としてここに記す。そして翌日から個展の制作に没頭した。