いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自作自演の生活芸術記

展示の搬入を終えて1週間が経った。猛烈に本が読みたくなって図書館へ駆け込んだ。頭の中に読みたい本をイメージして、本の背表紙を眺めて彷徨うのが楽しい。自分の制作の最前線として紙を制作したのでいくつか紙に関連した本を借りた。

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「紙二千年の歴史(ニコラス・A・バスベインズ)」を読みながら頭のなかでは、紙を使ってどんな作品をつくるか、というアイディアが渦巻いている。たぶんスケッチなんかをして手を動かせば、カタチが見えてくるかもしれない。

でも何よりも、思考の軌跡みたいなものを言葉でスケッチしたい。たぶん、これがぼくの表現の原点にあるものだろう。

この本のなかでも、日記とスケッチは一章割いて取り上げられている。レオナルドダヴィンチは紙にそのアイディアを言葉と図で残している。ダヴィンチは、モナリザに代表されるような絵画は極めて少なく、むしろこの大量のメモによって後世に知られる人となっている。

紙を作ることで、新たにテーマが与えられ、それをどう表現していくのか、それが何を伝えるのか、自分自身まだよく分かっていないけれど、この紙という歴史の古い、人類の発展に貢献してきたモノへの興味と興奮がある。

この一週間何をしていたのか。紙について本を読みつつ、いくつかの仕事をした。北茨城市の移住とキャンプをテーマしたオンラインミーティング。大学の恩師の講演のチラシ作成、バンドの次の展開へのミーティング、個展に関連したワークショップのための準備。

昨日からサーフィンの先輩が北茨城に来て、今朝は海の様子をチェックしつつ、別件のミーティングをした。

思い出した。先週はお寺の住職さんとのミーティングもあった。檀家さんに配る冊子に寄稿して欲しいとの依頼だった。御礼にお米3kgを貰った。住職さんの話は、子供のころからお坊さんになりたかったけれど、大人に信じてもらえなく、大学を卒業して普通に就職して、夢を忘れられなく、天台宗の一般公募に毎年応募するも落ち続けて、どうしてもお坊さんになりたいと電話したら、修行するお寺を紹介してもらった、というエピソードがよかった。

サーフィンの先輩は、北海道で計画しているプロジェクトのお誘い。ほんとうに丁寧に数年に亘って声を掛けてもらっている。水に関する開拓プロジェクト。北茨城での桃源郷の取り組みも見てくれている。絵画も制作するけれど、いまは大地に関心がある。目の前に景色をつくること。

今日の午後は、蓮根の収穫をしてみた。去年は地中に深く潜り込んでて数個で諦めたけれど今年も再挑戦。やっぱり深く潜り込んでて、簡単には掘り出せない。数個収穫してやり方を調べてみた。蓮根は掘るのが難しく現在は、ショベルカーを使ったり、水圧で泥を掘ったりして収穫している。機械を使わない方法は、見つからなかったので、改めて挑戦してみることにした。掘るのが難しいと言っても30分で、2、3回料理する量の蓮根が採れるのだから、こんなものなのかもしれない。人間は苦労してモノを作り出してきた。

この二年くらいは、大地に根を張った植物のように暮らす環境を作ってきた。そろそろ動き出すときが来たと感じる。植物と動物について。

してきたことが交錯して並んでいる。それらからまた先へと広がる仕事が見える。岡倉天心がやはり興味深く「東洋の思想」の新訳解説付きを読んでいる。日本は中国だけでなく、インドからも影響を受けている、と。なるほど。だから「アジアはひとつ」の出だしではじまる。この先、中国、韓国では滞在制作したい。必ず。

バンドのミーティングで、メンバーの宮下が「これは仕事じゃないから、遊びなんだから好きにやろう」と言っていた。しかしもうぼくには仕事と遊びの区別が完全に消失している。お金が貰えるかどうかが基準でもないし、誰かに頼まれたかどうかでもないし。例えば、土曜日に友達のライブを観に行った。これは完全に遊び。だからバンド活動はどちらかと言えば仕事=作品を制作するものとしたい。バンドは遂にレコーディングする計画に動き出した。

明日から炭焼きがはじまる。けれども天気予報は雨。明日の予定は明日決まる。これが日常。何をしているのか分類できないけれど、していることすべてが毎日表現している生活芸術。ぼくが作った生活環境での出来事。