いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

好きを育てて自分の世界をつくる

f:id:norioishiwata:20220308193050j:image

生きるための芸術は、炭焼きになった。今年の冬は木を運んで薪割りをして。身体を動かして生きている。集落支援員という仕事をしている。茨城県北茨城市の山間部で景観をつくるプロジェクトをしている。目の前の景色をつくること。これが表現の原点だ。誰もが目の前をつくっている。

生まれて目が見えるようになって世界が現れる。そこはすでに作られた世界。両親や親戚、生まれた場所、その時代の社会、環境、さまざまな状況に囲まれて成長していく。その過程で自分の世界を見るようになっていく。次第に自分の好みで世界を編集するようになる。好きな科目、好きな友達、好きな遊び。そうやって「好き」を育てて世界を作っていく。

けれども社会は「好き」を育てることを許さないことがある。それをして何になるのか、とその意味や価値を問う。場合によっては「好き」の新芽を摘み取ってしまう。まるで雑草のように。

朝6時に起きて、炭窯の煙を見に行った。透明になるにはあと数時間はかかりそうだった。師匠と相談して8時30分にまた合流して窯を止めることにした。

冬から春へと季節は変わりつつあって、朝でも水が凍らなくなった。窯を止めるまで時間があるので、バンドの曲に歌詞を入れた。高校生のときバンドをはじめて、30年経って未だにバンドをやっている。ぼくは自分の「好き」を奪われる前に家を出た。だから音楽はいまもぼくの生活のなかにある。もちろん一緒にやってくれる仲間がいるからでもある。音楽と友達はいまも続いている。

歌詞を書けたのでデモを録音して、メンバーにラインで送った。それからまた炭窯に行った。窯の煙は透明になっていた。師匠は来てなかったので電話をしたら「止めていい」と言った。

窯を止めて薪割りをはじめた。チェンソーや斧を使って木を割る単純作業。これが労働というやつだ。炭の出来高で給料が決まる訳でもなく、生きるための芸術を探究した先に炭窯と出会って、これをやることの意義もハッキリしていないけれど、何か原始的なこの労働に魅力を感じている。思い出せそうでなかなか思い出せないような、ぼんやりとした「これでいい」という感覚だけがある。たぶんそれは自然を利用して生きるという感覚。その時々に必要なものを獲得していく狩猟採取のやり方。

f:id:norioishiwata:20220308193107j:image

それでもいまの生活は集落支援員という仕事に保証されている。反対に保証にはならないアート制作とその活動。ここから生まれる作品を売って生きている。好き好んで、この状況を自ら作って、そのすべてをしている。

 

朝書いた詩だ。

どうして 
好きにやればいい

意味を壊せ 
それは自由
24時間 
君の自由

時間を売るな
騙されるな
24時間
君の自由

ぼくたち
それを知ってる

デタラメ
踊れ
君の自由に

それをやるのさ


好きを集めて今のライフスタイルを作った。これで終わりということはなく、つくり続けること。それが生きるということだ。毎日がスタートラインに立っている。そこから見たい世界をイメージして、そこに向かって編集し続ける。

ひとが争いを止めるために

戦争が起きている。ロシアがウクライナに侵攻した。その背景について両側から正義が論じられている。同じとき、ぼくは平和に暮らしている。同じときに争いに巻き込まれる人々がいる。どうしてひとは争いを止めることができないのか。

戦争に比べたら、ほんとうに些細なことだけれど、ぼくにとって受験も戦争だった。中学生のころから優劣に分けられ、もっと言えば学校生活自体が戦争だった。もちろんいま起きている戦争とは違うかもしれない。でも争いの種は人間の心のなかにある。

ぼくは小学生のとき、いじめに遭った。今からは想像もできないだろうけれど、たくさんの暴力を受けた。辛くてそのひとりを殴り返そうと家の前まで行ったことがある。勇気がなくて引き返したけれど。

はじめて就職した会社でいじめがあった。不器用な女の子がいて、失敗するたびに笑われて、それが嘲笑に代わって、次第に怒りになり、その女の子は何をやっても失敗するようになってしまった。そして会社に来れなくなった。できるだけ話しかけたりするようにしていたけれど、彼女にとってはぼくもその会社側の嫌な奴だっただろう。

交通事故で病院に入院したとき、同じ部屋に指が六本ある吉田さんという人がいた。そのひとは病院と刑務所を出たり入ったりしていると話してくれた。吉田さんは、軽度の知的障碍者で、軽いから仕事もできるし社会生活にも最低限は参加できる。でも何度頑張っても社会からはじき出されてしまう。それで路上生活をしながら軽犯罪をして留置所や刑務所に入ったり、ときには労災で病院に入院したりして生きていた。それが吉田さんがみつけた生きる方法なのだと話してくれた。

社会は競争のうえに成り立っている。そうなってしまっている。勝者は敗者に手を差し伸べているだろうか。学校でよーいどんで競走したとき勝者は敗者を助けることを教えるだろうか。ぼくたちは弱い者と手を切るために勉強をしているのだろうか。競争に勝てばお金をたくさん貰える。地位や名誉や肩書がもらえるという。

はじめて就職した会社に嫌気がさして上司に辞めると伝えたとき「この会社でわたし(当時の部長は50代)ぐらいまで勤めれば、普通の人より大きな家に暮らして、普通の人よりよいクルマに乗れるんだぞ。もう少し我慢したらどうだ」と言われた。心の底からそんなもの欲しくもないと感じた。

結局、ぼくは競争しなくても生きていける、そういう環境に暮らしたいと思うようになった。ぼくは妻と二人でアート作品をつくって暮らしている。当然ながらアートの世界にも競争がある。よい作品/悪い作品という区別があって、ひとはよい作品を買いたいと思う。将来的に価値が出そうな作品を欲しいと思う。

どこまで逃げても競争はなくならない。だから自分の表現だけでも「よい/わるい」という区別を消したいと考えている。ヒントは自然のなかにある。自然には優れているも劣っているもない。そんな概念は存在しない。動物も虫も植物も、それぞれの生態系を持って生き延びている。人間が雑草と一括りにする草たちは、それぞれが生存戦略を持っている。小さく弱いけれど、強く生きるチカラを持っている。

いつのころからか人間が創り出した優劣をどうしたら超えることができるのか。いつも考える。だからヘタになろうと思う。技術の源流へと遡ってみたい。競争ではなく、他者との比較ではなく、ただ作品が存在する、モノとして生まれ、そこにある、作らなければならないとか、売らなければならない、という理由よりも作ってしまった、という衝動が先行する作品。

生きるとは死ぬとセットで、どちらかだけがあることはない。同じように単に「よい」というだけの作品があったとしたら、それは美しくない。「理想」という嘘もあるかもしれない。いや、理想は嘘ではない。理想は実現するという志向性がある。理想はそれを描いたときから「ほんとう」の側へと向かっていく。理想を追い続ける先にはちゃんと死が待っている。

「よい/わるい」の向こう側へ、その理想郷に作品が生まれいずるために、ぼくは身の回りの自然から作品をつくろうと企んでいる。そこにある地面を掘って土を手に入れる。それを粘土にする。その粘土がどういうものであれ、なにかしらかの塊に成形できるのであれば、その不自由さも含めてカタチにする。神様はそうやって人間を創ったのだから。

粘土を炭窯で焼く。炭窯がそこにあるから。焼成温度は800度程度だから陶芸にはならない。けれども土はひとつの塊になる。それが何か、どうなるのかは、そのモノが語ってくれるだろう。

裏山で楮をみつけて、それを蒸して枝から剥いだ。今日は、それを煮て皮を削いでみようと思う。手順としては、それを叩いて繊維にする。そうやって紙をつくってみようと思う。つくった紙につくった炭で文字を書きたい。そのときどんな言葉が出てくるのだろうか。買ってきた有り難みもない紙と鉛筆で書く言葉とそれは違うだろう。言の葉。その源流へと回帰する。

すべて自然からつくられた作品。そいうモノが何を語るのか、ぼくはそれを見てみたい。きっと拙いものだろう。不格好なものだろう。

人間は、便利になり過ぎて、目の前にある環境の利用価値が見えなくなって、遠くの便利や快適さに手を伸ばしては、届かないと悲鳴を上げる。大切なモノは、自分が生きているその目の前にある。そこを選んだのだから。それが愛するというこではないだろうか。もし未だに居場所を選んでないなら、すぐに移動するべきだ。今いるべき場所へ。

水は高いところから低いところへ流れていく。人だろうと組織だろうと国家だろうと、高いところから低い場所へと手を差し伸べられるようにならなければ、争いはなくならない。

バリ島で滞在制作したとき、ホストがホームパーティーを催した。驚いたのは、親戚や友達だけでなく、近くの路上生活者も受け入れて家族のように同じ楽しみを分かち合っていた。聞くと、分け隔てなく分かち合うのが、ほんとうの裕福さの証と考えられている、と教えてくれた。東南アジアの小さな島のひとつの家族が、一時的に争いのない日常を作っていた。

 

 

夫婦芸術家の現在地について

f:id:norioishiwata:20220219154556j:image

「どうして絵を描くのか」妻にそう質問されて考えた。はじめは絵を描いてそれが認められて世界で活躍できたらいいな、程度の妄想だった。あとは会社で働き続けるのが無理だという限界もあった。将来のことを考えたとき、会社で働いて給料を貰っていても何者にもなれないし、それだったらという現実的な諦めと夢への逃避が入り混じって、想像力を駆使して生きることに賭けてみようと決意した。

だから絵を描くことは、そういう人生のはじまりで原点にある。そもそもはコラージュという表現技法からはじまった。それが発展して紙を切って貼るだけでなく、そこにあるものを利用する技術になって、絵を描く以外にも、家を直したり、土地を開墾したり、炭を焼いたり、和紙をつくろうとしたりしている。そのすべては「生きるための芸術」というコンセプトに貫かれている。

理解のためにもう少し噛み砕くと、ぼくは妻と一緒にアート活動をしている。ぼくたち夫婦の場合は「絵を描く」というよりも「絵をつくる」という表現の方がぴったりくる。絵画という表現形態を追求しているのではなくて、生きるための芸術という活動を追求するために絵をつくっている。

それもこれもコラージュなのだけれど、twitterでもっと一般的に分かりやすい説明をしている人がいた。ギャラリーには、現代アートとファインアートのギャラリーがあって、現代アート系のギャラリーは、作家が所属してマネージメントや作家の方向性なども含めて売り出していく。一方、ファインアート系のギャラリーは作品を販売する。作家ではなく作品=モノを扱うと分類すると分かりやすいかもしれない。もちろん「現代/ファイン」と完全に分類できるわけもなく、ギャラリーはグラデーションのようにそれぞれのやり方で展開している。だとしても作家としてのキャラクターを作り上げていく方法と、作品を作り上げていく二つの方向性があることを説明できる。

これを例にしたのはぼくたちの「絵をつくる」という表現がファインアート的な文脈にあると思ったからだ。

絵をつくって作品として発表することで、その作品を売ることもできるし、生きるための糧にもなる。そして、とてもシンプルに社会に対して芸術家であることを表明できる。

それに対して生きるための芸術は、檻之汰鷲という作家を育てる働きをしている。こっちはより現代アート的な指向性がある。ぼくはギャラリーに所属していなから、それを自分でやっている。もっと言うなら、以前にしていた仕事=マネージャー業を自分にしている。

それらは直ちに販売できるようなモノではない。例えば、桜を植えて景観をつくる「桃源郷プロジェクト」や、廃墟を改修して暮らしをつくる「D-HOUSEプロジェクト」は、何をしているのか見ることはできても、それのどこがアートなのか理解されなかったりもする。作品といっても手に取れるものでもない。むしろこうした表現を美術館やギャラリーに展示できるようにしたとき現代アートになるのかもしれない。何にせよ「生きるための芸術」というコンセプトがぼくたち夫婦の土壌となって表現を育んでいる。生きるための芸術、これは大地だ。

生きるための芸術とは、常に思考し続けることだ。「なぜ生きるのか」という問いに向かっている。それは人間とは何か、社会とは何か、生きることに関するあらゆる考察へと広がっている。だから「生きるための芸術」とは思想であり哲学でもある。

f:id:norioishiwata:20220219154626j:image

それではなぜ絵を描くのか。それは芸術家になろうとしてはじめたことの原点がそこにあるからだ。絵という平面世界をつくることを通してぼくは表現すること自体を学習している。作品をつくるという行為は、与えられた命(=時間)を表現に費やすことで心を平和にすることでもある。何かをつくるという行為は、自分とモノとの対話に没頭することで、複雑で混乱した社会から距離を保つバリアを生み出してくれもする。これもまた生きるための技術なのだ。

こうして言葉にしながら考え、自らを理解している。これもまた生きるための技術なのだ。

こうして生きるために編み出された技術の集合体が生きるための芸術になる。それぞれの生きるための技術を探求するなかでの副産物として、その活動報告として排泄されていくのが作品だ。現在進行形の芸術という領域を拡張させるためにオブジェクトとして提出する。つまりアートと生きるを接続させるマテリアルを創出している。それらを道標としてアーカイブしている。このブログもそうだ。

例えばいま、炭窯のなかで人のカタチをしたオブジェを焼いている。これは土器だ。何万年前の人類がしたようなことをしている。それを縄文として再現するのではなく、その行為がはじまったその文脈以前に遡る。ほかには生きるための道具としての、生活するための器もありえる。楮を採取した。和紙をつくって白を手に入れ、そこに自然から色を採取して絵を描くことを企んでいる。薪ストーブの煤とイノシシから採取した膠で黒色をつくることも考えられる。採取と計画、イメージと表現を検証して、行動する。"Art is doing word"だ。

「生きる」ことに真っ直ぐ向き合うほどに歴史を超えて原始まで遡る。アートという西洋の文脈も日本人としての芸術的な思考もすべてを飲み込んで源流へと回帰する。そんな表現に到達してみたい。それらは決して技巧的でも美しくもなく、それでもそれが存在しなければ生きていけなかっただろう必然性に満ちている。圧倒的な存在。そういうモノをつくってみたい。

f:id:norioishiwata:20220219154714j:image

この景観。これが作品だ。大地のうえに自然を利用して作られた炭窯。

一緒に活動してくれる妻には感謝しかない。ぼくひとりではとても表現できない世界観をカタチにしつつある。あと少しあと少しと、行き先の見えない旅に誘って不安にもさせてしまうかもしれない。けれど活動と作品が認められて世界を飛び回るという夢はいまも見続けている。何のために? この時代に「生きる」という生命活動、その原点に、いまを生きる人々を目覚めさせるために。

そしてイメージしている。作品を売るためではなく、生きるための芸術を伝えるために展示してみたい。

何かに抵抗し、生きるために表現をしている

どうして生きるとはこんなにも複雑なのだろうか。それに答えるために表現をしているのかもしれない。なぜ生きているのか。そんなシンプルな問いにも答えられない。ただ曖昧なままに言葉は意味の間に沈んでいく。だからせめても言葉を紡いで、自分なりの進む先をみつけたい。そのために文章を書いている。

1月は北海道で滞在制作をした。滞在制作をするとき、その土地にあるモノを掘り起こす。北海道では、その大地の先住民アイヌのことを知った。偶然にも父が新年に興味ある本や映画のチラシを郵送してくれ、そのなかに『アイヌ通史: 「蝦夷」から先住民族へ』があった。偶然の一致が起きたら手に取るしかない。図書館にあったので借りて読んでみた。久しぶりに読み応えのある本だった。書いたのはリチャード・シドルという外国の人で英語タイトルは「Race, Rsistance and the Ainu of Japan」。見事に日本語訳にはタイトルの「人種、抵抗」の文字が抜け落ちている。

ぼくは、この本をアイヌのこととしてではなく自分の問題として読んだ。つまり、どうしてこんなに生きるのが難しい社会なのか。社会が人を区別して優劣をつけるという構造自体が人を苦しめている。そう読むことができた。

ちょうど最近読んだレヴィ=ストロースの講義本と共通するので、併せてメモしたことを記録しておく。

1.アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、インディアンのように見た目で人を分類するやりかたは過去のものになっている。それなのに旧来の人種観念がいまもあって、肌や目の色、身長や頭のカタチ、毛髪の質などの特徴で人間が分類されている。しかし地理的分布と人種を一致させることはできない。現在では「プール」と考えられている。プールは場所によって変化して、時間の経過のなかで絶えず変化していく。

 

2.文化は人種という区分につくられるのではなく、文化によってつくられている。人種というものは存在せず、そのようなものがあるという信念だけが存在しており、その信念は排除と支配の前奏曲として、ある集団の思考のなかで、他者を(したがって自己を)構築するために使われ、他の社会集団がその排除に抵抗する手段として自己を定義する(したがって他者を構築する)ために使われる。

 

3.アイヌが人種化、従属化された集団になった歴史的・物質的な状況は植民地主義だった。北海道島の先住民とその南の隣人との関係は、有史以前から存在し、北海道の古代遺跡は西暦紀元前数世紀まで遡ることができる。しかし17世紀から「野蛮」とみなされた住民に対する日本の支配拡張に伴い交易は不平等な性質を持つようになった。「北海道」という領土に植民地秩序を確立した1868年の明治維新後、日本の支配は加速した。

 

4.19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本は自らを近代化するとき「人種」という概念は人間集団を区別する「常識概念」として受け入れられるようになった。世界で植民地化が進むなかで「優秀な人種」が「劣等な人種」を征服して支配するという構造が正当化されていった。

 

5.一般民衆にとっては民間伝承の世界観や不浄で人間ではない賤民の存在が「人種概念」の理解を促した。つまり鬼や野蛮な非人間的な存在として受け入れやすかった。

 

6.1890年から1920年にかけて急増した雑誌と新聞では国家と社会の衝突は「生存競争」における「優勝劣敗」という表現で描かれるようになった。なかでも日本における人種的思考の台頭を促進したのはそれと並行していたナショナリズムの流れだった。

 

7.社会的混乱から「国民意識」をつくる。つまり「想像の共同体」として国民をつくりあげるには、すべての日本人を自然発生的な共同体に所属している感覚に組み入れる必要があった。

 

8.「大和民族」として同一化された日本国民は「血」によって定義されるようになった。日本という領土的な区分から「民族」という歴史的・文化的・風土的なものへと変質していった。そして皇祖神にまで遡る皇統に根付いた共通の祖先に由来する血のつながりを象徴する天皇が国民の頂点に置かれ1890年から1900年にこのイデオロギーが完成した。

 

そしてこの流れに抵抗するために

9.文化とともにネーションには歴史、すなわち集団に対して現在における日常の経験の把握を可能にしながら、過去との連続性も提供してくれる、一貫性を持ち理想化された過去の集合的記憶が必要になる

10.自分たちの歴史を編集し、自分たちのアイデンティティを理解し、自らのために歩む

 

まさに自分が表現する原点を知るために、ぼくはあれこれやっている。何かを表現してそれを売るということは、続けるための手段でしかなく、その先には人間という存在の意味を知りたいがためにやっている。

 

 

働くことは走ること

北海道から帰ってくると、炭焼きの師匠から電話があった。

「家の前の木を切ったからいつ取りに来れる?」と言われ

「明日行けます」と返事した。

f:id:norioishiwata:20220205074729j:image

翌日に行ってみると、大量の木が切り揃え並んでいた。驚いた。庭木を切った程度の話しかと思っていた。72歳の師匠はひとりで、木を伐って枝を落とし、運びやすい場所に並べていたのだ。

年末に炭焼きをして、火入れを担当した。ひとりでやるのは初めてだった。よく燃やしておけと言われて、よく燃やしていたが、様子を見に来た師匠に「そんなんじゃ燃えが足りない」と言われた。師匠はブロアーを持ってきて風を送って窯を燃やした。燃やすの次元が違っていた。

師匠は、よく燃やしておけと言って再び居なくなったので、同じようにブロアーで燃やし続けた。が、翌日師匠に「これじゃ真ん中しか燃えてないな、失敗だ」と言われてしまった。かなりショックで久しぶりに凹んだ。

f:id:norioishiwata:20220205074810j:image

それでも窯の蓋をして、炭焼きの工程を進めてみたものの、煙が少なくて頼りない感じで、結局、火を止めることになった。師匠に失敗の烙印を押されてしまった。

 

そんな失敗を踏まえて師匠は仕事とはこういうものだと教えてくれているようだった。ここには「労働の哲学」が詰まっている。

炭焼きの材料は一回の伐採で二回分以上つくる。炭になる木をどこから調達するのか。その場所選びからはじまる。生えてる木の種類も配慮する。今回はカシがメインだった。最高級の材料だ。木を倒したら、玉切りにする。枝を落として燃し木をつくる。玉切りにした丸太は運びやすい場所に積んでおく。

言うは容易いけれど、実行するのは重労働だ。重労働だから、無駄なエネルギーは消費しないロケーション選びが重要になる。作業も疲れないようにチカラを抜いてやる。チカラを抜いてチカラを出すのだから、もはや労働の奥義とも言える。

f:id:norioishiwata:20220205074836j:image

炭焼きをスポーツだと考えている。部活。生活できるほどのお金にはならないから。一回窯に入るだけ焼いても二万円程度。それを3人で二週間くらいかけてやる。もちろん、ひとりで毎日朝から夕方までやれば、生計も立つのかもしれない。しかしそれより大切なことがここにある。

 

木を運んでいるときに思い出したコトバがある。アフリカで家を建てたときのことだ。

"Work is move. It is run(仕事は動き、それは走るように)"と言われた。

このコトバが通用するのは身体を動かす仕事に限定される。しかしそういう仕事は、お金にならない労働になっている。農業、林業、漁業、これら一次産業は、自然に働きかけて、人間が生きるための資源を市場に提供する仕事ながら、厳しい労働として位置づけられてきた。しかしこれらの仕事がなければぼくらの生活は成り立たない。それなのに、これらの仕事の地位は低くく扱われている。

ぼくの世代は、大学に入っていい会社に就職することが成功とされてきた。医者や弁護士、上場企業に入るために学校で学ぶようだった。林業や漁業や農業を目指すことは、推奨されなかった。ぼくは大学に行ったけれど、やりたいことは決まっていなかった。音楽が好きというだけでバンドをやったりクラブやライブハウスで遊んでいた。だから、バイトは週末やりたくなかった。楽しいイベントを見逃したくなかった。結果できる仕事は日雇いの建築業だった。当時はツライ気分だったし、どうして自分はこういう仕事しかできないのか呪ったりもしたが、いまになってみると、消去法だったとしても、自分には身体を使う労働が合っていたのかもしれない。いまは好き好んで炭焼きをやっている。

 

仕事というものを見渡してみると「いい仕事」と「よくない仕事」がある。社会の構造自体が優劣に分けられて、仕事も人間も優劣で分類されている。「いい仕事」に就いた人は人生の勝者で楽ができる、と信じられている。安心して死ぬことができるとも信仰されている。日本の社会はこんなものを標榜してきた。

炭焼きは底辺の仕事だった。山を持たない炭焼きさんは、山主から木を買って炭をつくる。山の木の値段は、売り上げの50%だったとも言われている。いまでは山の木を財産だと考える人も少なくなっている。ほんの二、三十年で価値観が変わってしまった。

常識も答えも進むべき道を示す標識も刻々と書き換えられている。数十年前の常識は非常識になっている。社会や常識というのは、遅れて現れる兆候でしかない。たくさんの人がトライ&エラーをした結果でしかない。つまり時代の最前線を生きる自分自身がトライ&エラーを繰り返して、次の世代への標識を打ち立てていくことだ。

f:id:norioishiwata:20220205075221j:image

林業をやっている友達が教えてくれたことがある。

「今は杉や檜よりも、広葉樹が人気あるんだ。そうすると、みんなが広葉樹を植える。でもそれは五十年前の人たちがやったことの結果でしかない。つまり当時、広葉樹を植えるなんてバカのやることで圧倒的な少数だった。もしくは放置した山が広葉樹になっただけ。言いたいのは、みんなが広葉樹を植えてるなら俺は杉や檜を植える。そしたら五十年後、俺は死んでるけど、俺に繋がる誰かはお金を稼げるんだ」

炭焼きの師匠は「遊んでばかりしてあまり仕事しなかったなあ。山登りにサッカー、マラソン、夢中で遊んでたよ」と言う。どう生きるのか。その道は自分だけが知っている。

社会にこれからの未来を提案する

f:id:norioishiwata:20220129105806j:image

雪のなかの景色を描いた。北海道の暮らし。屋根の雪下ろし、排雪する様子、雪に包まれていく家々。当たり前の風景が愛おしく思えて。

知らない土地に行ったら、その土地を知ろうとする。それが滞在制作の楽しみで、それをすることで自分を知る。北海道は約150年前に北海道になった。滞在した豊滝で話しを聞くと4代前が開拓者としてこの土地に来た。だから、この土地を引き継いでいきたいと話してくれた。暮らしは歴史と大地と繋がっている。

f:id:norioishiwata:20220129105717j:image

北海道の150年より前はアイヌの歴史になる。ウポポイを見学して「アイヌから見た北海道150年」という本を買って読んだ。どこから来てどこへ行くのか。絡まる歴史を紐解きながら、それぞれの道を示すしかない。

 

ぼくの道は「生きるための芸術」。歴史を紐解けば、芸術とは生きるための技術だった。つまり生きることが表現だというメッセージ。生きるとは、自分が生きていく環境をつくること。それが生活。家を作ったり、水を手に入れたり、畑をやったり、何千年前、何百年前までの人間が自然のなかでしてきたことを日々の生活に取り戻すこと。ぼくはこの生活をつくる活動を「生活芸術」と呼んでいる。これは解放と自立のムーブメント。生きることに関するあれこれを商品からではなく自然から手に入れること。

f:id:norioishiwata:20220129105951j:image

これは祖父母や父や母の時代から受け継いできた生活スタイルの一部を変革する試み。これまでは高度成長期の延長線にあった。日本は戦後、ほんの数十年のうちに経済的な成長を成し遂げた。それは自然を犠牲にして成り立ってきた。ぼくたちの暮らしはこの延長線上にある。漫画やアニメや映画やアートはさんざんこの危機を物語ってきた。それでもやっぱりそのメッセージを消費するだけでそれらを現実に反映してこなかった。

 

どこから来て、どこへ行くのか、これは他人の問題じゃない。それぞれに向けられた問い。同じ場所に留まることもないし、指し示された方へ歩いていけばいい未来でもない。

多くの人は気がついている。低いところから高いところという線的な視点ではなく、面から球で捉える時代に変わっている。低いと高いは180度回転すれば逆になる。それだけのこと。甥っ子のゲームに参加させてもらったとき、画面は面だけれど、その奥には世界があった。世界とは、グラフでも数字でも線でも面でもない。彼らはそういう次元を体験している。

 

48歳になって、今回の滞在制作を経て、ぼくが感じるのは、高度成長期的な日本社会ではなく、もっと尺度の長い歴史を踏まえたライフスタイルの提案を目指したい。これはAではなくBをというのではなく、AもBもCもDもと選択肢が増えていくこと。これまでは自分の生活をつくってきたけれど、これからは、生活芸術を社会にインストールしていく器になりたいと考えが変わった。ぼくは経済成長する。

今回は高校の同級生ツトムの縁で、サーフィンで繋がったジンさんに大きな世界を覗かせてもらった。

出会った数人だけでも、皆が自然のなかにつくる暮らしを模索していた。単に類は友を呼ぶなのかもしれない。だとしても、そういう動きが起きていることは間違いない。人と出会うことでしか進まない。社会はその連鎖でつくられていく。そのためには動くしかない。けれどもその動きを止めようする、この社会状況をサバイバルしていくことも、自分が嫌だと感じることから離れることも、それができる環境をつくることも、この先の未来をつくる一歩になる。そういう時代の変換期に生きている。

一度にスタートとして同じゴールを目指すやり方は終わり、それぞれのタイミングでにそれぞれの目的地へと散っていく未来のために。

民族共生象徴空間とは/アイヌとは誰なのか

f:id:norioishiwata:20220119232958j:image

むずかしいことだけれど書いておこう。北海道で滞在制作しているので、ついに民族共生象徴空間ウポポイに行った。ウポポイは、北海道の先住民とされるアイヌの伝統を紹介する施設だ。

この施設では、歴史、民族の衣装や祈り、道具などが展示されている。ホールでは踊りも見学できる。ここにあるモノをエンターテイメントとして楽しむことができる。けれどもその背景には、人類の歴史に必ず付き纏う侵略と差別から目を背けることもできない。エンターテイメントとして消費できない傷みがここにはある。この消化できない思いをどうにかしたいと一冊の本を買った。

f:id:norioishiwata:20220119233011j:image
アイヌからみた北海道150年」

石原真衣 編著

 

ウポポイの展示やイベントを体験することと、アイヌとして今を生きている人たちの声に耳を傾けることは一致しない。もちろん、本を読んでも話しを聞いたとしても、当事者たちの何かを理解することはむずかしい。でもここには明らかな反省すべき人間の誤ちがある。

例えばアイヌ民族とは何か。という問いがある。それは血なのか。だとしたら、血縁者ではない人がウポポイでアイヌの踊りを舞うことは偽物なのだろうか。

 

少し前、日本のラッパー5Lackが、アメリカのラッパー6Lackのファンにアジア人が真似してラップしてるとSNSで笑い者にされて話題になった。簡単に説明すると、ブラックアメリカンの文化であるヒップホップを盗用するな、という風潮がある。5Lackは 6Lackよりも前からその名前で活動していたにも関わらずその事実は無視されたまま話題になってしまったのだ。

 

アイヌであるというアイデンティティは、日本人として暮らすという強制/共生のもと、歴史から消されようとしていた。そのアイデンティティは長い間、痛みや苦痛でしかなかった。ところが、時代の流れのなかで、少数民族や先住民を保護する政策が世界中で取り組まれるようになり、アイヌの人々も、少しずつアイデンティティを取り戻しはじめた。

そのことを明るみにした歩みそのものでもある萱野茂は、1926年(大正15年)現在の平取町二風谷に生まれる。アイヌ語しか話せない祖母の影響でアイヌ語母語として育つ。小学校卒業後は造材人夫として生計を立てる。コタン(集落)からの民具の流出に心を痛め、1953年(昭和28年)頃からアイヌ民具、民話の収集記録を始める。

1960年(昭和35年アイヌ語研究者であった、金田一京助博士や知里真志保博士の影響により、アイヌ語の記録を始める。

1970年頃より、資料館を設立し、アイヌに関する映画記録や著作活動をさかんに行うようになる。萱野茂の「チセ・ア・カラ アイヌ民家の復原 われら家をつくる」の解説を宮本常一が書いているらしい。

書籍「アイヌからみた北海道150年」によると、

アイヌであるという痛みや苦痛を消すためにその文化は伝承されてこなかった。しかしその文化を復興することが、存在証明になると、萱野茂は活動を精力的に行った。

 

また1980年代には哲学者の梅原猛が「アイヌは自然と共生する原日本人である」というコトバがイメージとして定着する。

こうした努力が積み重なって、現在のアイヌ像が出来上がっている。

けれども、今を生きているアイヌの人々は、アイヌのコトバも話さないし、伝統的な何かをするわけでもないし、自然とも共生していない。つまり、ぼくと同じように生きている。ここにむずかしさがある。

アイヌの物語は、アイヌにルーツを持つ人たちだけのものではない。また萱野茂さんが、復興したから現在に受け継がれている文化のように、今現在失われているわたしたちの文化がある。この「わたしたち」が誰に呼びかけているのかも、考える必要がある。「わたしたち」とは血や民族ではなく、このコトバが届く範囲のわたしたちだ。

わたしたちは、重なって生きている。悲しみも想いも未来も過去も折りたたみながら。もしヒップホップがブラックアメリカンの文化を肌の色や血で区別するのだとしたら、また誰かが誰かを区別して傷つけることになる。

f:id:norioishiwata:20220119233105j:image

ぼくは北海道の大地のうえに滞在し制作している。大地と繋がっている。だから、ぼくはこの自然と共生していると言うこともできる。アイヌという問題について触れずにこの地で表現することはできない。だからと言って、アイヌの伝統や文脈が作品に反映される必要もないと思っている。どこの大地に立ったとしても、そこには歴史が押し潰してきた傷みや悲しみが地層のように重なっている。