いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

つくること日記

今日していることは、これまで自分がしてきたことの延長にある。まったく新しいことを突然に始めることはあまりない。

制作している肖像画は、よい新作に着地できそうだ。ベニヤと木材でウッドパネルをつくり、額を鑿で削る。ウッドパネルにペインティングとシルクスクリーンをする。できるだけ作れるモノはつくる。持っている技術を投入して、できるだけベストな品をつくる。作品はいつも王様に捧げる気持ちで作る。なんなら神と言っても構わない。奉納するために作る。制作することは1日を祈りに変えてくれる。

作品の制作が生活の中心にあって、その他にストレッチや筋トレ、英語の勉強、文章を書くこと。これを全部やれたら、充実した1日になる。それ以外には、音楽を聴くこと、バンドのことを考えるという活動もある。あと本を読むことともある。どれも生きていくうえでの歓び。

自分にとっての表現は、混沌としている。整理されていない。けれどもアウトプットは、作品と文章がメイン。それをするために筋トレやストレッチやランニングや読書、音楽がある。

そもそものはじまりは、読書にある。本だ。絵本とか漫画とか。その延長にアニメソングとかの歌。ここに全部揃っている。文章、絵、音楽、キャラクター、色、モノのカタチ。ヒーロー。物語が創作の根源。

夜は本を読む。昨日は、夢枕漠原作、谷口ジロー絵の漫画「神々の山嶺」を読んだ。チフミは、手塚治虫の「ブッダ」を読んでいた。どっちも生涯ランキングに入る傑作。今夜は井筒俊彦さんを特集した本を読んだ。ここに、岡倉天心鈴木大拙井筒俊彦という系譜があると書いてあった。大学時代の恩師、上野俊哉も文章を掲載していた。そもそも上野さんに井筒俊彦を教えてもらった。今はかつて岡倉天心が拠点にした北茨城市に暮らしている。そして舟をまた作ろうとしている。天心も、ヨットと和船をハイブリッドにした舟を制作している。

鈴木大拙は、音楽を聴き漁ってるうちにジョンケージを知り、それで本を読んだ。それで禅を知った。信仰というよりは、生きるための知恵として仏教も取り入れている。考え方に。今年になってから、姿勢の中心を取るために座禅をしている。左足首を自分で治すことを試みている。こうした影響はモノのカタチや見方として作品に反映されている。なぜなら、ぼくは日本人だから。

オリジナルであるということは、根源にどれだけ素直に従うか、ということだと思う。それがジャンルや肩書きに収まらなかったとしても、己の中に流れている血脈のような影響、影響が星座となって照らし出す道を歩く。なんなら芸術と呼ばれなくても構わない。

奉納すると書いたけど、神といっても、いろいろある。偶像や外の神ではなく、ひとつ言えるのは、それは自分の中にあって、内なる声に耳を傾けて、その声を聞くことだ。本で読んだことがある。そう思ってやってみると確かに聞こえる。

そいつが「走る」と決めたら走る。「絵を描く」と決めたらやる。「文章を書く」と決めたらやる。自分を思い通りに動かすことができれば、人生の数多くの困難を克服できる。パーフェクトに操ることができれば金メダルを獲れる。とてもシンプルだ。しかし、それが難しい。だからいつも矛盾する。だからいつも矛盾を心掛ける。

自分を動かすこと。表現することで生きていく基本。そんな日々だ。表現のなかのいくつかが社会の役に立ったり、誰かのニーズを満たして、お金として対価を得る。そうやってかろうじて生きている。いまは景観をつくる桃源郷づくりが主な仕事になっている。奇跡の仕事だ。そのおかげでコロナ禍を表現者として生き延びている。感謝。

目指している表現は、簡単なようで難しい。お金を得るために作るのでなく、評価されるために作るのでもなく、自分を形成してきた影響を混ぜ合わせて、捏ねて、そこから何かを創造して社会に提示してみる。神様が土を捏ねてアダムを作った神話のように。それは自分を形成してきた文脈の最前線であり、また誰かを形成する糧になることを願う。表現が、予言のように時間的にも先取りして提示したい。アメリカの作家カートヴォネガットは、芸術は炭鉱のカナリヤであるべきだと書いている。最前線で危険を知らせる役割をする。意図をも超える純粋さ、透明だから輝きが生まれる。クリスタライズド。だから、作るというより、環境や状況によって必然的に作らされている。吸収してきた影響が川となって流れている。そこから、掬い上げるカタチを。

景観を作るために竹藪を伐採することにした。そこに大量の竹がある。竹を素材に作品をつくることにした。頭の中で舟を構想している。アイルランドのボート、カラックをモデルに竹と木材での制作を企んでいる。こうやって素材と出会うとき、制作は未知の冒険となる。竹の筏はあるけれど、竹の舟はあまりない。けれども太古であれば、そこにあるものを駆使して便利を生み出したに違いない。道具も素材も発達した現在、素朴で新しいモノを生み出す可能性を提示したい。新しい民族である。

非常事態にも変わらない暮らし。

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シンプルな暮らしが続いている。朝起きて、薪ストーブに火をつけて、お湯を沸して、と、チフミがやった後に起きて、餅かパンをストーブの熱で焼いて食べる。お喋りして、ストレッチと筋トレをする。

9時になったらアトリエへ移動する。歩いて2分。今はオーダーを貰った肖像画を制作している。まさに芸術家らしい仕事だ。オーダーをくれた人は、ぼくらの作品を何点も所有している。だからパトロンとも言える。

チフミは肖像画の色付けをして、ぼくは額を鑿で削る。ひたすら。音楽を流して作業を始めようとしたら、建具職人の横田さんが現れた。ここを気に入って毎日訪ねて来る。今日は、シゲ坊さんが死んだことを知らせてくれた。ぼくたちは、昨日もう聞いていた。そう伝えると、別の人にも知らせると出て行ってた。

作業は、鑿で削る。音楽はジョンコルトレーンがハマった。ひたすら削って、お昼になった。家へ帰って、横田さんの奥さんが焼いてくれたパンを食べた。このパンがとても美味しい。奥さんは、パンを焼くと食べて、と持ってきてくれる。有難い。

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こんな風だから、あまり食費もかかっていないような気がする。具体的なお金のことはチフミが把握している。ぼくはそんなことを気にせずに制作に没頭させてもらっている。

午後は、肖像画にちょっとした工夫をするために磁石を町まで買いに行った。クルマで30分。その間は、RadioGardenというアプリで外国のラジオ番組を聞いている。今日はサンフランシスコ。アメリカは、なんとなく西海岸がいい感じがする。偶然、日本語の歌が流れた。イースタンユースだった。

100円ショップセリアで磁石を買って、帰りに、前に住んでいた家の荷物をクルマに積んで帰った。今年度中に退去の予定なので、少しずつ片付けている。

アトリエに戻って、再び削る。ひたすら。嬉しいのは、自分で研いだ鑿がよく切れること。道具を手入れできて、やっと技術が身につくように思う。

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17時になったので今日の作業は終わりにした。家に帰ると、薪風呂が沸いているとチフミが教えてくれた。買い物の後に沸かしておいたらしい。夕飯は、昨日貰ったおでん。貰ったビールを飲みながら食べた。そのあと、薪風呂に入って19時頃から、作品集の編集作業をはじめた。こんな風な日々を過ごしている。

ところが、いま世の中はコロナウィルスで異常事態となっている。もう1年以上も、警戒状態が続き、今年に入ってからは緊急事態になっている。ニュースで電通のビルが売却されると読んだ。

たぶん、人は、戦争になっても緊急事態になっても、生きていくための営みは必要で、シンプルな暮らしを作れば、何にも振り回されることなく、淡々と日々を過ごすことができる。ぼくは東日本大震災のときに感じたことを反映させて自分のライフスタイルを作った。その結果がいま実践になっている。

ぼくの暮らしはとても小さくなって、世界全体の何かが変わろうとしている。

コロナ禍日記。起きなかった過去と起きている現在。

コロナウィルスと共存する日々は一年を超えた。いつまで続くのか。生活はぐっと狭い世界に押し込められている。東京へは行かなくなって、その繋がりはネット上だけになった。現実では、北茨城市の山間部の集落のなかだけに暮らしている。

2020年度は、ほぼコロナに覆われていた。2月に東京で個展をやって、また夏頃にやりましょう、と話していた。それも自然消滅した。北茨城市の山間部に開拓している地域で、イベントをやったり、県外や海外の人にアトリエを滞在制作として開放する予定だった。けれども、それをしていたら、と考えることはほとんどない。あるときから「ノー・エクスペクテーション」を標語にしている。ローリングストーンズの大好きなアルバムに収録されている曲でもある。

期待しない。これをこうしたら、こうなってとイメージを膨らまさない。簡単に言うと、これだけアルバイトをしたら、これだけお金が貯まる、みたいな計算をしなくなった。それに向かって活動をしないということではなく、期待を上乗せしない。もちろん、目標に向かって進んでいくのだけれど、途中で道が閉ざされても、期待しなければ、迂回したり、道を作ったりすることも、起きるべくして起きた仕事だと受け止めることができる。そもそも、未来を予測して、そこに期待しなければ失望もない。ある意味、仏教的な気持ちがあっての「ノーエクスペクテーション」だ。

 

今の自分のライフスタイルは東日本大震災から繋がっていて、社会のインフラとある程度、独立したところに生活をつくる必要があると感じた。その直感のままライフスタイルを作ってきた。危機的な災害に対応した生活になっているから、コロナ禍でもさほど変化のない暮らしをしている。

時間の感覚が変わりつつある。以前は、成果を毎月、もしかしたら毎日、お金を数えるように積み上げる必要があるような気がしていたし実際そうしていた。けれども、コロナ禍では、慌てて動き回るよりも、もっと先の未来に向けて制作するようになった。1日、1日をコツコツと生きている。良いのか悪いのかは、今は分からない。

独立して、つまりフリーランス的な立場で、しかもアート活動を軸に暮らしていくいまの状況は、奇跡的なバランスで成立していて、いつ成り立たなくなるのか、まったく予測できない。

やりたいことは、未だ認知されていない分野をアート表現として位置づけすることだから、当然それは仕事にならない。ニーズすらも未だないものを作るのだから。けれども、ゴーギャンのことを知って、よりそうあるべきだと信じるようになった。妻には申し訳ないけれど。生活そのものが芸術になれば、それを指向する人が増えれば、社会そのものも変わる、という仮説のもと活動をしている。生活を作るということは、日々の暮らしのすべてをただ受け入れるのではなく、ひとつひとつを検討して取り入れていくことで、それは、高いとか安いとか、便利だとか不便だとか、既存の価値基準を超えたところ、つまり個々のニーズに応じて編集さることになる。

この取り組みを理解してくれたのが北茨城市で、生活を芸術にする延長にある山間部の集落の景観をつくるというプロジェクトを集落支援員という仕事として読み換えて発注してくれている。生活をするということ、地域をつくること、それ自体がアートプロジェクトとして動いている。つまり、経済的なパトロンを得て生き延びている。偶然にも活かされているという感覚だけがある。だから、いつこのバランスが変わるか分からない。だけに尚更、ノーエクスペクテーションというスタンスになる。

今は春に向けて準備している。植樹した桜の花が咲く、菜の花が咲く、一年が経って、ようやく景観が作れることに期待している。社会に対しては期待せずに、自然には期待しているらしい。自然には期待というより賭けと言った方が適切かもしれない。

生きるための芸術の3冊目を寝かしつつ、作品集の編集作業をしている。本を作るのが好きで、たいして評価される訳でもないけれど、そもそも、理解の向こう側を開拓しているのだからと、これも諦めている。諦めているから、やらないのではなく、現在の評価を期待することなく、とにかくやり続ける。未知の領域を開拓しているのだから、よっぽど上手くやらなければ伝わらない。まずは自分が納得するまで精度を上げるしかない。

その時にしかできないことがある。状況が悪くても、そのバランスの悪さのなかで、生み出される表現がある。それはその時にしか生まれない。文章も同じだ。今の考えや気持ちは今しか生まれない。

昨日、読みはじめた井筒俊彦さんの本。スッとわかりやすく複雑な文章が入ってきた。

あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何ひとつない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫通する。ひとつひとつのものが、どれも己の内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつひとつの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつひとつのものが、即ち、一切なのであって、燦然たる光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつひとつの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)しかもすべてがお互いに他のなかに映現している。

 

プロティノス「エンネアデス」井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」からの引用。

「楽園への道」を読んで。

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芸術とは、自然を真似るのではなく、技術を習得し、現実の世界とは異なる世界を創ることだった。

「楽園への道」バルガス=リョサ

 

久しぶりに500ページの本を読んだ。しかも小説。主人公は、ゴーギャンとその祖母フローラ。二人は面識はなく、フローラはゴーギャンが生まれる4年前に亡くなっている。あまりにこの物語に共感したので、メモを記録しておく。

先にフローラから。彼女は社会活動家。まだ女性が夫の所有物だった頃、1800年代。女性の地位向上を訴えながら、労働者たちの暮らしの向上にも取り組んだ。フローラはその使命に取り憑かれていた。マルクスの「共産党宣言」よりも4年も早い1843年に「労働者連合」という本を出版している。シャルル・フーリエが登場する場面があって、20代のとき「四運動の理論」を頑張って読んだのを思い出した。自分は社会やこの世界を本を読んで理解しようとしていたけれど、それは現実の社会と酷くかけ離れていて当時は何の役にも立ってないようだった。そんな読書もこうやって巡り巡って、人生に学びと発見を与えてくれている。

ゴーギャンは、36歳まで株式取引きの仕事をしていた。その傍ら趣味で絵を描いていた。絵を描くのも同僚に誘われて、ほんの遊びのつもりだった。ところが、すっかり取り憑かれて、絵の世界を追求して、タヒチまで行ってしまった。何もかもを捨てて。

ゴーギャンが目指したのは西欧社会が失ってしまった原始的な人間の根源を表現することだった。だから未開社会と呼ばれるような環境に暮らしてモチーフを求めた。

ゴーギャンは、タヒチに行くより前にゴッホのアトリエに誘われて共同生活をした時期が2ヶ月だけあった。結局、上手くいかず、ゴーギャンは出て行くことになり、その時のトラブルで、ゴッホは耳を切って、病院に入ってしまう。それが原因で自殺してしまう。そのあとゴッホは伝説となった。作品は高額に跳ね上がった。

ゴーギャンはそんな経験をしても、自分の芸術を追求した。いや、その経験が背中を押したのかもしれない。

「楽園への道」を読んで感じた。これはフィクションだろうけれど、ゴーギャンは、理想の芸術的な環境を求めたのではないか。作品として絵に現すだけでなく現実にしたかったのでは。ゴーギャンは「愉しみの家」というアトリエ住居を作っている。家をつくることは、環境を自ら創造したいことの表れだと思う。

ゴーギャンが目指した処が、自分がしようとしていることと至るところ重なって、希望と勇気を貰った。とても意義深い読書になった。何より、未だ存在しない表現を求めて突き進んでいく、フローラとゴーギャンの姿は、凄まじいく激しい。はじまりは、ほとんど理解者なんていなかっただろう。それでも信じる道を進んだ。生前には二人とも手応えはなかったんじゃないだろうか。それでも、いまぼくがこうして影響を受けるほど、歴史に名を残している。

 

ぼくは、生活の中に芸術を追求している。この生活という当たり前のことが大切にされたとき社会は変わると信じている。ひとりひとりが、その暮らしを作るようになれば、もっと楽しく豊かになる。その生活とは、ゴーギャンタヒチのように遠くに行くのでも探しに行くのでもなく、ぼくたちは日々の暮らしの中に既にその美しさを持っている。それは単に忘れられて失われていっているだけだ。しかし、それがどれほど恐ろしいことか。大切なモノ、美しいモノが見えなくなって、必要のないモノのように消されていくこと。大地とか。海とか、水や草木。または空気。暗い夜。

それを単なる絵空事や不満として言葉にするのではなく、ぼくは現実に理想の生活空間を作った。コロナで実現できていないけれど、創作に没頭できるこの環境を表現者たちに開放するつもりだった。

ここには現実とは違う、もうひとつの理想世界がある。ぼくはそれを創りそこに生きている。コツコツと準備している。来る時のために。今書いている本のタイトルは「廃墟と荒地の楽園」。このタイトルで良いと思えたし、この道を引き続き、進むことにした。

そして妻チフミに「やっぱり未だ存在していないことや知らないことが好きみたいなんだ。だから、また世界中の田舎を巡る旅をしたいな。きっとそこには、人間が原点回帰するような生きるための芸術が息づいていると思う。だからお金を作って旅をする準備をしておこう」と話した。

地図を書き換える2021

年末に2020年に聴いたアルバムのベスト10を選んだ。今は聴く手段がたくさんあるから、いろんな音楽を選べる時代になっている。

Mac Miller  /  Circles    

Haim  / Women In Music Pt.Ⅲ  

Common  / A Beautiful Revolution  

Fenne Lily / BREACH 

The 1975  / Notes On A Conditional Form   Derrick Hodge / COLOR OF NOIZE

Beyonce / Black is King

Beatrice Dillon  / Workaround

John Carroll Kirby  / Conflict

Cory Wong & Jon Batiste  / Meditations

もちろん、どれも素晴らしい作品なのだけれど、ほぼアメリカ、イギリスの音楽(薄々、気がついてはいたけれど)。それに気がつくと、ヘビーリスナーとしては悔しい。何かに操られているようで抵抗したくなった。そこで、2021年は「世界中の音楽を聴く」という目標が生まれた。

数日前にSNSを見ていたら、ブライアン・イーノの記事が紹介されていた。コロナ禍で、田舎に引っ越して、のんびり過ごしているらしい。友人から世界中のラジオ局が聴けるアプリ「Radio Garden」を教えてもらい、すっかり気に入った、そうだ。

それは欲しかったモノでは!と早速アプリをダウンロードしてやってみた。世界地図上に無数の印が光っていて、そこにカーソルを合わせると、そのラジオ局の番組が聴けた。アラスカに行ってみたり、ロシアに、パプアニューギニア南アフリカ、モロッコ、イビザ、イギリス、アメリカ、世界中の音楽を聴くことができた。

それでも、やっぱり、アメリカ、イギリスの音楽は、世界の端っこでも流れていた。パプア・ニューギニアで、プリンスのパープルヘイズが流れていた。ぼくは、日本の端っこで、それを聴いて感動していた。おかげで、年が明けてからは、いとも簡単に夢が叶って世界中の音楽を聴けている。これがテクノロジーの進化の恩恵だろう。

「音楽に政治を持ち込むな」というスタンスもあるらしいけれど、「音楽を聴く」という行為から社会の縮図は透けて見える。当然ながら、ここにも国境があり、奪い奪われてきた歴史が刻まれている。日本は敗戦国で、アメリカに占領された。敢えて抵抗しなければ、僕たちは、そういう文化の地図のうえに暮らすことになる。もちろん、言語的な分布図もある。しかし、それもまた争いの歴史によって作られた分断の地図だ。

つまり無意識のうちに日々選択しているモノコトが、社会を形成している。選択したモノに経済という血液が流れていく。選ばれなかったモノは、やがて忘れられていく。それも淘汰として受け入れることもできる。だとして、100人全員が選ばなかったとしても、100人のうちひとりが、それを選ばべば、未来へと繋いでいけるのだとしたら。むしろ、そのひとりをやってみたい。

いま読んでいる「楽園への道」で、ゴーギャンは言う「絵について解決すべき問題は技術ではなく環境であり、熟練ではなく想像力と命を賭けて専心すること」

まったく同意する。技術を競うのではなく、それ(作品)が何処からやってきたのか、作品が纏っている地図を問うべきだ。歴史や政治のような、時を積み重ねても、少しも改善されない部分に対して、抵抗するために、新しい地図を獲得するための杭を撃つべきだと思う。

ぼくは「生活芸術」という表現に、そういう想いを込めている。作家のその生活の中から、素材から、その選択の中から既に表現は始まっている。ぼくは日々を生きている。けれど、これは無意識に過ぎていく日常ではなく、日々選択を重ねてつくる人生という芸術作品だと考えている。

去年までは、多くの人がそうすれば、世の中がずっと良くなると考えていた。けれど、そうではなくて、これは100分の1の特殊な探究なのだから、その先端まで、なんとしてでも踏破して、むしろ、それを冒険談として語り継ぐことに役割がある。そう思うようになった。

ぼく自身、ベスト10になる存在ではない。世界の片隅を目指しているのだから。世界はどんどん同じようになっていくけれど、世界の田舎、それぞれの端っこでは、その土地に根差した自然と共にある、根っこは共通していても見えているその姿は、想像を超えるほど異なるのライフスタイルが今も営まれている、と空想している。世界中のラジオ局から流れる音楽を聴きながら、そういう世界の端っこのライフスタイルを採取の旅に出る夢を見ている。それができるような制作スタイル、作品、お金の作り方を2021年の方針にする。

欲しいモノを手に入れるために欲しいモノをすり減らしていたら、それは手に入らない

1月3日。朝4時。気温はマイナス2度。自分でつくった家に暮らしている。まず部屋を暖めるために、薪ストーブに杉の葉っぱ、枝、不要な郵便物を放り込む。マッチで火をつけると、杉の葉に炎が上がる。燃える匂い。火が安定したら太い薪を入れる。部屋が暖まったらコーヒーを淹れる。コーヒーカップぐらいは自分でつくりたいと思う。

やってみたいことはたくさんある。なかでも今年は、文章の精度を上げたい。並んだ言葉が読み手のところへと届くようにしたい。伝えるというコトは、ここで起きていることを、相手側の心に通じるトンネルをつくるようなことだ、と新年に本を読みながら感じた。ちなみに村上春樹が翻訳した「極北(マーセル・セロー著)」を読んでいる。

昨日、東京に暮らす先輩から電話があった。久しぶりにゆっくり話をした。とても苦しんでいた。仕事のこと、家族のこと、過去のこと。向き合うことが多すぎて逃げているうちに鬱になったと告白した。後悔している過去を受け入れて、それを自分の一部として人に開いていけば、新しい自分になれると考えていると話してくれた。

具体的に何をすることもできなくただ話を聞いた。話を聞きながら、自分は、ひとがもっと幸せに生きていく選択肢を増やすために表現活動をしているのに、何も役に立てていないとも感じた。

誘惑の反対側に「楽(らく)、楽(たの)しい」があると思う。誘惑とは、あれが欲しいとか、あれがしたいとか、そういう衝動のことだけれど、ほとんどの衝動が生命活動と関係ないところで作動している。ナイキの靴を買わなくても死なない。社会は商品と欲望のシステムで循環している。そのシステムをほぼ完成させようとしている。競争のシステムだけで社会は動いている。勝つか負けるか。例えば、6人いれば、走ることは1位から6位に振り分けられる。6位になる人は走る必要がないと言われる。そういう気分にさせられる。もっと違うことした方がいいとすら勧められる。「走る」を別のことに置き換えても成り立つ。「歌」とか「絵」とか。

東京の板橋に住んで音楽関係の仕事をしていたとき、多くの人は青山、渋谷、三軒茶屋あたりに暮らしていた。当時は、よりよい仕事、よりよい居住環境を求めていた。だから「なんで板橋なんかに住んでいるの?」と言われたことがある。そのときは何も言わなかったけれど、答えは単純で、家賃がほかに比べて安いからだった。それでも23区に住みたいという誘惑があった。よりよい仕事を求めて、誰かがその仕事を獲れば、よりよくない仕事を誰かがやることになる。よりよい住環境を求めれば、誰かは誰かに劣る暮らしをすることになる。

結局のところ「よりよい暮らし」は商業戦略でしかない。家賃が高いのも、つくられた競争によって起きている社会現象に過ぎない。だから、そんなことで気を病むくらいなら、ゲームを降りた方がいい。ほんとうは先輩にそう言いたかった。

先輩はどちらかと言えば、ゲームに強い方だった。会社を興して、お金を稼いで。成功していた。だから、何がいいとはぼくから言うことはできなかった。また再起すればゲームに勝つ可能性も充分にある。言いたかったのは、駆けっこでビリになった人間にも走る理由はいくらでもあるということだ。身体を動かすことの意義や、走ること自体の楽しさや、場合によっては、どうしても走らなければならない状況もあるかもしれない。それこそ生き延びるために。でも先輩は、そういうことではなく、競争社会でもう一度、戦うと宣言しているようでもあった。

ぼく自身は、ほとんどの競争に勝ったことがない。だからなのかもしれない。競争が起きない方を選択してきた。多くの競争を放棄した代わり、いまは板橋どころじゃない、北茨城市の山間部に暮らしている。

一応言っておくと、競争を放棄した先には自然界がある。自然を利用すれば最低限生きていくことは可能だ。人間はそうやって生きてきた。とても当たり前のことだけれど、大地は食べ物を育む。自分が食べるという規模に於いては自然は競争を強いてこない。自然界は弱肉強食だと思うかもしれない。観察してみると自然界は強い弱いではなく、それぞれが違う種目で生き延びている。できるだけ勝ち負けに関わらないように棲み分けされている。もしくは自ら棲み分けしている。

自然界に倣うなら、欲望の反対側に棲息することで、楽に生きていくことができる。その観点からすると、別のゲームが始まっているのかもしれない。ロケーティングすること。自分の環境を再構築すること。ソーシャルディスタンスという言葉が示すもの。あらゆるモノとの距離を調整して、間合いを取りながら生きていくこと。

社会が裂けようとしている。問題はそこにある。先輩の苦しみが、その引き裂かれる叫びにも聞こえる。「棲み分け」という言葉を持ち出したけれど、こっち側とあっち側と棲み分けするための言葉ではなく、全体の問題として分類するのではなく、細部のパッチワーク、配列の仕方で状況を変えることを提案したい。ある部位だけの視点を変えること。動物と違って人間が抱える社会は複雑で巨大だ。棲み分けする部位は、細部に分け入るほど増殖していく。だから、ロケーティングする部位は、常に一時的でしかない。情報化の速度と量が増えるほどに、変化のスピードも増していく。

先端を尖らせていくのではなく、裾野を広げていくこと。自分自身の許容範囲を広げていくこと。それは弱点を突いて殺すのでも黙らせるのでもない。温度をコントロールするように適温をみつけること。

いまは北茨城市限界集落とされるような里山に暮らしている。競争はほとんどない。薪ストーブを使う人はいなから、薪になるものは取り放題だし、倒した木は処分するのにお金がかかるから運ばれてくる。耕作放棄地は広がる一方だから、草刈りをして整地すれば使わせてもらうことができる。ここには一時的に快適な空間が構築されている。けれども、コロナが長引けば、状況は変わるかもしれない。移住者が増えて、薪も譲り合いになるかもしれない。土地も分割して売られていくかもしれない。

競争社会は、常に下位を切り捨てていく。その狭間に価値を与えると「楽」が生まれる。それはすべてが等しく並列すること。
コーヒーカップを創ること。材料を買ってきてつくるのか。自然から採取してつくるのか。コーヒーカップを買うこと。100円ショップで買うのか。唯一つしかない芸術的なカップを買うのか。もしくは捨てられたカップを拾うのか。

「コーヒーカップ」を別のモノに置き換えてみれば、世界には想像を超えたバリエーションが存在する。

生活芸術、2020から2021へ。

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今年も生き延びた。コロナ禍の一年だったから、ほんとうにこの環境に感謝しかない。いつも一緒に制作してくれる妻に。この場所を与えてくれた北茨城市に。地域の方々へ。生活芸術という活動を理解し応援してくれる人に。これを読んでくれる人に。

2020年は「生活をつくる」という活動が着地した年になった。まさに大地に根を張る年だった。生活そのものを表現にすると取り組んできた7年。去年から改修をはじめた廃墟は家として完成して、景観づくりまでに展開した。井戸水を配管して、薪ストーブに火を炊いて、木を伐ったり、種を撒いたり、収穫したり、荒れ地を開墾したり。この冬、自分で作った家で暖かく過ごせている。水も美味しい。近所の人からの食べ物のお裾分けのおかげで食料は豊富にある。まさに環境に活かされている。

活動の中から作品のアイディアをみつけてカタチにしていった。井戸を掘った粘土から土器を作った。さらに発展させて、実用的な器を作りたい。自分で使うモノを自分でつくる。それを目的としたモノの在り方。それを見てみたい。

トウモロコシの皮で紙を作った。紙未満のモノだけれど、これもやがて作品に発展できる。原料の楮(こうぞ)はみつけた。

炭窯を作った。2回やってどちらも失敗した。おかげで、炭に詳しくなってきた。土と水と火と風と木と。5大要素を学ぶことから展開する何かに期待している。

3冊目の本を書いた。製本して幾つかの出版社に送ったけれど、出版の話しは、まとまらなかった。4人の編集者が返事をくれた。お断りのメールだったけれど、どの人も真剣に本づくりをしている熱が伝わってきた。だから、本は春まで寝かせて、加筆修正して完成させることにした。この冬を越さなければ物語を閉じて循環させることができないと感じた。返事をくれた方々に心から感謝している。第一線で活躍する編集者からの返答は進むべき道を照らしてくれた。

さらに作品集を作りはじめた。文化庁の助成を利用して日本語と英語を併記した本を作っている。翻訳をプロに依頼したけれど、レイアウトの都合、自分で仮に翻訳することにした。本のデザインを仮組みしてから翻訳の原稿を提出することにした。英語はもっと上達したい。はじまりから未来へと、自分たちの活動を橋渡しする本になる。海外へと活動を広げるきっかけになる。諦めなければ何事も続いていく。

つまり2冊の本が同時進行している。今年は何かの結果は出なかったけれども、新しい芽を育てている。

年始に本を読みたくて、いわき市の図書館に行った。今年は井筒俊彦さんの本「意味の深層」を読んで久しぶりに哲学思想系の脳が動き出した。言葉が球体になって、裏や表、その深みへと飛び回りたがっている。井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」ドゥルーズガタリ千のプラトー」を借りた。

図書館で本棚を見て歩いていたら「薪を炊く」という本をみつけた。ノルウェーの本で、薪について書いてある。ページを捲って、即座にやられたと思った。薪について、あらゆる方向から言葉を走らせている。寒さとか薪を積むこと、薪を割ること、暖かさについて。まさにノルウェーの生活芸術がここに記されている。

すべては道の途中だ。完成はなくて、何かが仕上がったとき、それは終わりのはじまり。はじめて書いた本は「Before After The End」個人的な神話世界を描いた。今年、ようやく10年前の作品に向き合うことができた。

外からの刺激がなければ新しい眼差しはみつからない。過去、日々、思索、周りの環境、生活、そのなかに必要なモノはすでに揃っている。あとは、見出すこと。拾い上げること。磨くこと。芸術、即ち、表象、表現、それらに神経を通わせたい。身の回りも喜びを与え、喜びを受け取り、生きていく。

2021へ続く。
明日からまた365日はじまる。