いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

楽園に暮らしている

本を書いているから、日々の記録に向き合わなかった。けれど、実は今していることを自分で知ることが地図になる。現在地を記すことになる。地図をつくれば、迷うことがなくなる。何処へ向かっていくのか決めることができる。

 

お盆は、釣り人とサーファーで海が混んでいた。北茨城市の海だから混んでいると言ってもたいした数じゃない。でも平日のここの海を知ってしまったら耐えられない。贅沢を覚えてしまった。だからお盆の間は、籠もって本を書いた。

お盆が明けて、海へ行った。最近は長浜海岸から北浜へと場所を移した。長浜は狭くて、波があまりない。だから、ほんとうに誰もいない。誰にも気兼ねなく練習するには最高の場所だった。絵も何点も描いた。北浜は、駐車場も、エリア自体もどうやって入っていくのか分からなかった。少し考えたら、簡単なことだった。それから波がありそうな日は毎日通っている。誰もいない海。短パンでまだ海に入れる。控え目に言っても楽園だ。

そうやって遊んでいるうちに本のタイトルに「楽園」というキーワードを入れようと思った。

 

どうして人間は楽園を目指さないのだろうか。楽園とは、苦しみのない生活を送ることができる場所。パラダイス。

生きていくための条件を数えてみると、最低でも食べ物、家、仕事。これぐらいは必要だろうか。個人的には、追加するなら、妻チフミとアートと自然、それぐらい。

 

でも夢とか野望はあった方がいい。生きていくエネルギーになる。やっぱり、未だ知らないことに遭遇することが好きだから、海外に展開していきたい。自分がつくってきた表現を世界で試してみたい。いろんな国の田舎に滞在して、その美しさを発掘したい。もちろん、いまは北茨城市里山の景観をつくるプロジェクトの進行中だから3年くらいは少なくとも、カタチになるまで時間がかかる。

それからつくったモノが売れるとか、評価されることもやり甲斐があるから展示もやりたい。できるなら、大きな美術館で、作品展示やインスタレーションをいつかやりたい。

 

それに没頭できる環境は作った。あとは地図を描きながら、向かいたい先へと進んでいくだけだ。それには今日。それには今日。それには今日。1日をどう積み上げていけるか。2025年に向けて計画してみよう。

 

 

 

井戸茶碗。井戸を掘った粘土で器をつくる。

やっと夏が来たと思ったらもうお盆。今年は夏が来るのが遅かった。梅雨が長かった。7月はずっと雲っていた。それはそれで曇った空の絵を描けた。日常にあるものを切り取って作品にしている。作品には絵のように売れるものもあるし、売れないものもある。

連休は同じ町に暮らす友達家族が、キャンプに来た。キャンプと言ってもキャンプ場ではなくて、耕作放棄地を整備してキャンプした。友達の古川さんは、生活を芸術にするということを理解してくれ、いろんなカタチで協力してくれる。荒地を整備してキャンプすることも作品のひとつだ。

3年前から現在に至るまでを「生きるための芸術」シリーズの3冊目として書いている。目の前の出来事を文章に書くことは現実をつくる活動になる。文章を書きながら次の展開を読むことになる。目次のように次に必要な物語が見えてくる。それをすることで、自分が作品をつくっているうちに作品につくられていく、という反転現象に飲み込まれていく。それは現実と空想がひっくり返って一致していく。

 

生きるための芸術3

「空き家・古民家・廃墟・荒地 生活芸術編」

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.生活芸術概論

Ⅲ.生きる つくる 働く

1.ペットボトルの筏

2.桃源郷

3.新しい地図

4.アートが生まれる場所

5.地域芸術の仕事

6.ここに在るモノ

7.生活芸術商売

8.廃墟の結晶/D-HOUSE

9.荒地と庭

10.景色をつくる

11.井戸茶碗

今は「井戸茶碗」の章を書くために制作している。
廃墟を改修して家をつくった。水がないので井戸を掘るか、100m離れた空き家の井戸から配管するかの二択だった。100mツルハシで掘って、塩ビパイプを埋めて水が出るようになった。
その頃、友達が「井戸を掘ろうよ」と言い出した。住宅や車を販売しているノブちゃんが、空いた時間、休みの日に通って井戸を掘るようになった。川がすぐ近くにあるせいか石が多く、ネットで紹介されている簡単なやり方では太刀打ちできず、ノブちゃんはコツコツとスコップで穴を掘った。2mほどで水が染み出してきた。水が出た。ついに水を自然から得た。運がよかった。たった2mで出たのだから。自分がアシスタントでノブちゃんが掘った。ところが巨大な岩が出てそれ以上掘り進めるのは難しくなった。その辺りから粘土が出てくるようになった。

ずっと粘土を探していた。生きるための芸術とは、自然のエレメントを駆使して生活に必要なモノをつくる技術のことだ、と考えている。だから、土と水と火と風で制作する陶芸こそ、究極の生きるための芸術だと思っていた。何も買わないで、そこにあるもので作品をつくるとは真空のような、ないところからモノを生み出す必殺技にも思える。

ぼくが暮らす北茨城市では五浦天心焼という陶芸を伝統工芸として保存している。五浦天心焼とは、この地域で採取できる蛙目粘土(がいろめねんど)を使用した陶芸のことを指す。江戸時代には、窯がいくつかあって、そのような陶芸があったと文書から分かっている。けれども、五浦天心焼という当時の品は残っていない。だから、いろいろな作家たちが、それぞれの陶芸を追求して五浦天心焼をカタチにしている。おかげで、北茨城に暮らすようになって陶芸を教えてもらう機会が何度かあった。

陶芸をするにも、粘土と釉薬を買ってきて電気釜で焼くという最も現代的なやり方がある一方で、その真逆には、粘土を採取して釉薬を自然のモノからつくり、土で窯をつくって、木で火を熾して焼くという原始的なやり方がある。

アフリカで建てた家と、炭窯のつくり方が同じだったように原始的な陶芸も、その同じラインに並んでいる。自然のエレメントを駆使して生きるために必要なモノをつくるシリーズだ。だからずっと粘土を探して、粘っている土をみつけては器にしてみた。けれども、カタチを成形できる粘土には遭遇しなかった。(バリ島で友達がプールをつくったときに出た粘土は野焼きまでやれた)井戸から粘土が出てきてついに成形するに充分な粘土に出会った。

出土した粘土には小石が混ざっているから、網で濾して石を取り除いて、それを成形する。現在、器ひとつと猫のオブジェ3つを乾燥させている。ほかにも器をつくったけれど乾燥中に割れてしまった。これが今現在のところ。

井戸茶碗とは、16世紀に千利休が珍品を求めるうちに「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」「ゆがミ茶碗」などを愛用することになり、その趣味によって当時の韓国で作られていた日用雑器の茶碗が伝説の茶碗に仕立て上げられた。

井戸茶碗の名前の由来には諸説あって、自分は、井戸から出てきた粘土で器をつくったから「井戸茶碗」になったと閃いたけれど、正解は分からない。名前の由来に一致しなくても、水が必要だから井戸を掘って、その水を飲むための器も、その井戸から出てきた粘土を使って焼いた。という展開はあっただろうと想像する。

その由来を調べていたら「井戸茶碗」という古典落語の名作があった。

あるとき、屑屋の清兵衛が屑の売り買いをしながら町を歩いていると、みすぼらしいけれども器量のよい娘に声を掛けられた。ついていくと路地裏の長屋で娘と貧乏暮らしをする千代田卜斎が仏像を買ってほしいと言う。目利きは得意ではないと断る清兵衛の態度を気に入って安くてもいいから買ってくれと、しばしの問答の結果、200文で買って、それ以上で売れたら儲けを折半することになった。

清兵衛がカゴに仏像を入れて歩いていると、高木佐久左衛門が籠の中の仏像に気づいて、家へ招いた。さらに仏像が腹籠り(仏像の中に更に小さな仏像がある縁起物)だと知って、これを気に入り300文で買い上げた。清兵衛が帰った後、高木が仏像を一生懸命磨いていると、台座の下の紙が破れ、中から50両もの小判が出てきた。ところが高木は買ったのは仏像だから50両は自分のものではない、と持ち主に返却するために清兵衛を探すことになった。

通りで高木が屑屋を探していると噂になり、悪い仏像を売られたからだと噂が立って、清兵衛は恐ろしくなって屑屋の掛け声を潜めて通りを歩いた。ある日、うっかり掛け声を出して高木に掴まり話を聞くと50両を返したいとのことだった。快く50両を預かり千代田の家に持っていくと、気が付かなかったのだからすでにそれは自分のものではないと受け取りを拒否した。清兵衛がしつこく迫るとついには怒り出す始末。仕方なく持って帰るも高木も受け取らない。仲介に入った長屋の家主が千代田に20両、高木に20両、清兵衛に10両でと提案した。ところが千代田はそれでも拒否するので、お金を受け取る代わりに品物を高木に渡したらどうかという話になって、千代田は父親の形見だった小汚い茶碗を譲って、騒ぎは収まった。

後日、この騒動が領主の耳に入り、この話を聞きたいと高木は呼び出されることになりその際に茶碗も見たいという。それではということで高木は小汚い茶碗を綺麗に磨いて持参した。領主はその茶碗が名品の井戸茶碗だと気づいて300両で買い上げた。そんな大金を千代田から貰った茶碗で得たのだから返すのが義理だと、清兵衛を呼び出した。けれどもやっぱり千代田はそれを断った。清兵衛は押し問答にならないように、千代田に前回のように何か譲れる品がないか相談する。思案した二人は娘を高木に嫁がせ支度金にすることにした。

清兵衛からこの話を聞いた高木はこの提案を快く受けた。清兵衛がきっと娘も一生懸命に磨けば、見違えるようになるだろう、と話すと高木は言った。「また磨いて小判でも出たらいけない」

 

生活の芸術という追求がどこに着地するのか分からないけれど、友達から送られてきたメッセージを読んでこれを続けることだと納得した。

我々は自然の恵みによって
人間たる以上誰でも芸術家であることを許されている。
芸術家といっても、画家とか彫刻家、音楽家、詩人
という特殊な芸術家を言うのではない。
「生きることの芸術家」なのである。
鈴木大拙

書くことは大地を耕すような作業。種を蒔くこと。

朝4時半に起きた。釣りに行く予定だったけれど雨が降っていた。本を書くのが止まらなくなったので、そのまま始めた。たぶん本の書き方もひとの数だけあって、ぼくの場合は、浮かんでくるものを書いて、溜まったものを並べて、どんどん余計なものを削ぎ落していく。三島由紀夫は、書いた文章がそのまま原稿になるとどこかで読んだことがある。そんな伝説のようには現実はいかない。本が好きだから、文章が溜まると冊子にしてレイアウトする。そうすると、必要な言葉が見えてくる。

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本を書いて、このブログの存在意義を想い出した。ここはタイトルの通り「生きるための芸術の記録」だった。日々起こる些細なことを言葉に起こす。それは大地を耕すような作業だ。書いた文章のどこかが、やがて本の一部になる。つまり蒔いた種が芽を出して実となる。

本を書いたおかげで自分のしていることが明確になった。いまは荒地を再生している。荒地と庭の中間点をつくろうとしている。気になっていたジル・クレマンの「動いている庭」が図書館にあったので借りてきた。読んで驚いた。荒地を庭にする本だった。植物が育つままに庭をつくると、種が飛んで予定外のところに生えてくる。庭をつくるのが目的ならその草を生かす。そうやって庭の方がカタチを変えていく。それが「動いている庭」というタイトルの由来だった。

文章を書くこと。生活をつくること。作品をつくること。伝えること。これらが循環して表現は続いていく。

「生きる つくる 働く」 本の構想メモ

ここ数日、ここに文章を書いて、それを並べてみて全体の構成が見えてきた。とにかく手を動かすのがいい。文章は長すぎず誰でも読める単純な方がいい。難しく書くことは簡単でも分かりやすくシンプルに書く方のは難しい。

去年の夏、ぼくらのレジデンスに滞在制作してくれた山根さんのエピソードからはじまる。山根さんは記憶巡る作品をつくっていて、最初の記憶についてインタヴューしてくれた。「最初の記憶って何ですか? 覚えていますか?」それは伝聞なのか、親が撮影した写真を見たことで記憶されているのか、それともほんとうに覚えているのか。曖昧な記憶のカタチを手探りで言葉にしていく。

1.はじまりの記憶
生きるのはどうしてこんなにもややこしいのだろうか。子供のころ誰もが無邪気に遊んでいたのにそれが続かないのはなぜか。成長して自分のチカラで生きていけるのか、か大人たちからの問い。将来何になりたいか。その問いに正解を出すために嘘をついてしまう。この社会にやりたい仕事なんてないのに。無理やり就職活動しても続かず、結局は好きなことを続けてしまう。それでもいい。むしろ好きなことを抱えて生き延びることの方がずっとシンプルなのではないだろうか。熱中すること。

 

2.ふたりのチカラ
ぼくは妻のチフミとふたりで一緒に作品をつくる。パートナーと協力して生きること。二人で作品をつくるきっかけや理由など。これは改めて文章にしておきたい。

 

3.移住
生きる場所について。生まれる場所は選べないけれど、生きていく場所は選択できる。受け入れられる場所こそがそのひとがいるべき場所。でもいまの社会は、受け入れられない場所でもお金のために留まってしまう。そのことによって心が枯れていく。動物や植物を参考に。

 

ペットボトルの筏
このブログに書いた2本目の原稿をもとに修正。短くしたい。ペットボトルの筏の作り方を掲載する。

桃源郷
人間と自然について。里山、庭について。土地や土について。地方と都市について。「動いている庭」ジル・クレマン参考に読んでみる。

この論文も参考になるかも。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_25-1/RitsIILCS_25.1pp.59-74YAMAUCHI.pdf

生活芸術商売
作品をつくって売ることについて。

廃墟の結晶
廃墟を改修して生活をつくる。


井戸茶碗
廃墟暮らしに水がないことから友人が井戸を掘ってくれ、その穴から粘土が出た。その粘土で陶芸をやろうとしている。土を巡る物語。炭窯づくりについて。器が作れればそれは井戸茶碗になる。

100ページぐらいに収まれば読みやすい本ができる。
タイトル
「生きるための芸術3 いきる つくる 働く 生活芸術編」

生きる つくる 働く4

ヨーロッパとアフリカの旅から帰ってきて、中部地方の空き家を転々としながら、日本の暮らしを調査していたとき、住所不定で不安定な生活をしているよりいいだろうと友人が「北茨城市が芸術家を募集している」と教えてくれた。それがきっかけで北茨城市に芸術家の地域おこし協力隊として移住することになった。芸術家として雇われるとは、どんなことなのか分からなかったので、タイムカードを押すような生活だったら辞めようと思っていた。

北茨城市は、明治時代に日本美術の基礎をつくり「茶の本」の著者として知られる岡倉天心が拠点にしていたこと、シャボン玉などの童謡詩で知られる野口雨情が出生した地であることから「芸術によるまちづくり」を推進していた。

市にとっても芸術で地域活性するのは初めての取り組みで、そもそも芸術とはどういうものなのか定義も曖昧だから市は「自由にやってください」とぼくたちを北茨城市の大地に開放してくれた。おかげで40歳を前に会社を辞めて芸術家になると旅に出た夫婦が、芸術家として社会に受け入れられることになった。

最初の取り組みは「築150年の古民家を活用しませんか?」という相談だった。そのプロジェクトが始まったとき、庭で果物が採れたらいいなと桃の苗木を植えた。果樹があちこちにあって散歩しながら果物が食べれたら、ここはまるで楽園になると、チフミと笑って話した。植えた桃の木は三年間ほとんど成長しなかった。もう枯れてしまうのかと思ったけれど、ついに今年実がなった。そして想像した楽園が生まれようとしている。

ぼくたち夫婦は、築150年の古民家をアトリエ兼ギャラリーに改修した。この古民家がある地域は、いわゆる地方の限界集落で、2km四方に11世帯が暮らしている。ここは地元でも誰も行かないような場所だった。お店もないし親戚でもいない限り足を運ぶ理由がない。日本にはそんな地域がたくさんある。「里山」と呼ばれる、切り拓かれた自然に抱かれてかつて人間が生活してきた場所だ。

ぼくはこの地域を桃源郷と名付けた。桃源郷とは中国の「川を下っているときに迷い込んだ村に暖かく迎え入れてもらい一晩の宿と食事を世話してもらい、まるでひと昔の前のような村だったのに、その心地よさが忘れられなく、再びその村を訪れようとしてもみつからなかった」という説話に由来する。

この地域は、都市に比べれば昭和のあるときから時間が止まっているような里山だった。現代では、こういう場所を「何もない」と表現する。この何もないの反対側には「すべてある」と表現される都市がある。けれども「何もない」と言っても無なわけじゃない。むしろ、里山には都市にない森や川や畑、田んぼ、真っ暗な夜、虫や鳥、動物たちがいる。つまりどこまでも自然が広がっている。

アトリエにしている古民家には庭がある。この家の縁側に座って眺めたとき、夏になって雑草が溢れるほど生えてきたとき、ぼくは「庭」という存在に気が付いた。庭とは人間と自然の境界。中間だけれど点ではない。グラデーションする空間。庭は家でも自然でもない。人間が作り変えた自然だ。自然を素材に並べ替えることで、広がっていく自然に調和させている。家の外であり自然への入り口。ぼくは、この古民家の縁側から眺める景色にこの地域を拓いて暮らしてきた先人の姿を重ねた。

庭とは控えめに言ってもその土地の環境が育む芸術作品だ。そのままの自然よりも人間の手が入った自然に美しさを感じる。その意味で芸術とは人間の手によるものに限定されるのかもしれない。こういう曖昧な境界線をみつけるのが好きだ。ぼくはすぐにアートだとか芸術と言葉にするけれども、妻のチフミは「別に芸術じゃなくてもいい」という。確かに芸術にカテゴリーすることで失われることもある。けれどもぼくは芸術によってこの社会に居場所を与えてもらったから、芸術を通して社会に還元したいと思う。何をだろうか。価値、意義、いや、生きる楽しみだと思う。だからぼくが芸術と呼ぶ多くのことは、一般的には芸術ではなかったりする。

話が逸れたけれど、ぼくたち夫婦にとって、それが芸術であるかどうかは問題じゃない。やってみたいかどうか。それだけだ。ぼくたち夫婦は、この古民家を通じて「庭」を手入れするようになった。まずは種を蒔いてみた。畑ではない場所を開拓して、土を耕して、見様見真似でそれらしく畑をつくってみた。空き地はある。だから食べ物が採れたらそれがいい。そういえば、数日前にこんなことがあった。スーパーで買い物をしていたら近所のお年寄りに会って、挨拶をしたら買い物かごをジロジロと観察されて「トマトなんか買うのか」と言われた。なんだろうと思ったら「トマトならたくさん成ってるから持って行ってやるよ」と後日、トマト、ズッキーニ、カボチャを届けてくれた。これは土地に余裕がある地方ならではだろう。だからと言って、種を蒔けば芽が出て収穫できるほど、簡単な話じゃない。それだったら人類は何も苦労しなかっただろうとも思う。

開拓した畑は、出来が悪かった。だから知る必要があった。畑は土でできている。土にもいろいろ種類がある。食べ物を育てるには土に栄養が必要で、その栄養とは微生物のことで、微生物は、有機物、つまり葉っぱとか虫の死骸とか、生き物が分解されて土に還る作用のなかで活動することを知った。微生物の活発な土がよい土ということになる。陶芸で使う粘土のねばりも微生物の活動らしい。

話のついでに、いま暮らしている家は元々廃墟だったからトイレがなかった。どうしようかいろいろ検討した結果、蛇口のついたバケツにおしっことウンコをして、水分のおしっこは蛇口から出して、ウンコは、おが屑をかけてその上に腐葉土をかけて蓋をしている。このウンコを分解するのも微生物の働き。醗酵すれば嫌な臭いはほとんどない。バケツを3つローテーションにして、全部がいっぱいになったら、ひとつを土に埋める。数か月してその土を畑に使うことになった。それがどこからやってきて、どこへいくのか。たとえウンコにしても、社会の中でその循環の入り口と出口を捉えることが自分で責任を持つライフスタイルのカギになる。どこかに消えていくウンコよりも、自然から得たものを自然に還す、この清々しさ、ここまで書いたけれど、未だ言葉にできない。とにかく社会から独立して自然のなかに生きている実感がある。

ぼくの価値観は反転している。みんが住みたいと思う場所は、地価が高騰してすべてが高い。誰も住みたくないような場所は、限りなくゼロ円に近い。価値がないところには情報も貨幣も集まらない。だから誰も行かない場所には何もないことになる。ところが何もないところには自然がある。自然には生きるために必要なものがすべて揃っている。自然は働きかければ、分け隔てなく恵みを与えてくれる。情報も貨幣も集まらないところには、欲するものが少ないから欲もない。だから素晴らしい古民家も使い道がなく放置されていた。捨てられているものは無欲だから純粋でいい。奪い合いも競争もない。

言いたいのは、これだけ人間社会が発達してあらゆることが便利になって、未だに都市か田舎かと議論しているなら、両方を愛していると抱きしめたらいい。ぼくたちには、それをするだけの社会環境は充分整っている。

友達はそれを「AかBかの議論でBを正当化するためにAを批判している時間が長すぎる。だったらB最高って話の方が愛があるし共感できる。」と言っていた。

まず、いまある条件を受け入れることだ。何があるのか。あるものでなんとかしようとしたとき想像力が働き、消費は生産へと変換される。ここにないものを外から持ってくるのではなく、ここにあるもので代用して事を済ませたとき、ぼくたちはその環境の一部となって生きることができる。

ぼくが今いる場所に何があるのか。桃の木を植えてから3年間、この土地に向き合って、この土地にあるものでどうやって楽しんで生きてくのかイメージしてみた。チフミはこのやり方を「ココニアル」と名付けた。外からやってきた者がある土地を支配する「コロニアル」の反対の意。

あれから3年経って、アトリエがあるこの地域に梅の木と桜の木が植樹されることになった。日本中にある何もない田舎を活性化するモデルとして、耕作放棄地や休耕田が提供され、桃源郷づくりが実践されることになった。何十年後かに、この里山の景観が何かを伝えるかもしれない。

価値がないこの地域の土地は、さながら共有地となった。放置されていた所有地は、桃源郷にするために共有地となった。控えめに言っても革命が起きている。ぼくたち夫婦は、所有者に声を掛けて、花を植えたり、野菜を育てたり、木を植えている。

都市と地方、芸術と生活、生きること、働くこと。経済と自然。ぼくらを振り回すいろんなことが、この小さな地域では、ぼくらを活かすために機能している。ぼくが田舎にいる一方で誰かが都市で活動している。二者択一の対立軸の真ん中に立って、どちらかの選択を迫るのではなく、どれもが少しづつ、ぼくらの生活に影響を与え合い、ぼくらもそのどれに対しても働きかけつつ、たぶん、土のなかの微生物のように活動していくことが必要なんだと思う。それにはコンクリートを剥がして土に戻する努力や、お金にならなくても誰かのために何かをすることや、それこそ野菜を育ててみるという小さな活動が、ぼくたちの生活をずっと楽しくしてくれる。ぼくは、それを「生活芸術」と呼んでいて、これを伝えるためにこの文章を書いている。それは人の生活が木のようにあらゆる活動に枝葉を伸ばし、それは360度展開していて、ひとつひとつのカテゴリーに分類できない。どれもが影響し合っている。だから経済という軸で物事を切り取ってしまえば、ぼくたちの生活はとても貧しいものに様変わりしてしまう。

 この小さな山の谷間にある小さな集落では、豊田澄子さんという80歳の元気な女性を中心に桃源郷がつくられている。スミちゃんはぼくたち夫婦にこう言う。

「お前らは絵を描け。それが仕事なんだから。おれは野菜を育てる。俺は絵を楽しませてもらって、お前らはおれの作った野菜を食べる。それでみんながサンキューベロマッチ。」

古くて新しい経済がこの態度のなかにある。これが何なのか、ここに言葉を費やす価値がある。

 

 

生きる つくる 働く3

世界中のひとたちがどうやって生きているのか。ほかの国の芸術家はどうやって生きているのか。ぼくは、それを知るために妻とスペイン、イタリア、ザンビア、エジプト、モロッコを巡る旅に出た。(詳しくは「生きるための芸術ー夫婦40歳を前に退職。芸術で生きていけるのか。」読んでみてください。)

ぼくがいましている生き方は、この旅のなかで遭遇した。つまり偶然出会った至るところの暮らしをカット&ペーストして生活をつくっている。ぼくは、旅で出会った人々から学んだことをそのまま日本で実践している。旅することは、非日常に遊ぶのではなく、日常のその先を切り拓く眼差しをみつけるためだ。海と共に暮らすライフスタイルは、スペインのバルセロナで出会った芸術家マーク・レディンから学んだ。

マーク・レディンは、アイルランドの出身で20代の終わりに単身バルセロナにやってきた。バルセロナの郊外に倉庫地帯をみつけ、そこに暮らし始めた。次第に仲間が集まってきて、倉庫地帯はアーティストの住処になった。ヨーロッパの様々な国からの移住者が集まっていた。ぼくはバルセロナの倉庫エリアで出会った人たちから、生活は安定しないものだと教えられた。綱渡りしながら生活水準は低くても、代わりに表現しながら生き延びていくやり方を見せてもらった。日本人だったら10代のような気持ちを何歳になっても持ち続けているようだった。

マークは油絵の画家で、それに加えてカラックというアイルランドで伝統的なボートをつくる。マークはこの舟で海に出ることを生きる楽しみとして、日々の習慣として油絵を描いていた。油絵と舟をつくることのコンビネーションが彼の唯一無二の芸術スタイルだった。それはまさに生きる芸術だった。マークが、すべて木から作るこの舟は素晴らしくDIYで、原始的でありながら安全に海のうえを滑走する。何百年も前から、そうやってきた先人の息吹を感じる乗り物からぼくは太古のアートを発見した。

「明日、海へ行こう」マークは海を予測してぼくらを誘ってくれる。ボートを漕ぐのは3人。乗り合わせた3人で力を合わせてボートを漕ぐ。時には釣り糸を垂らして魚を獲る。収穫があればお昼はチフミが魚をお寿司にした。午前中、体を動かして頭を空っぽにして、午後から夜まで絵を描く。創作に没頭する。来客があればみんなでお喋りして、好き勝手に創作へと戻っていく。マークはそんな暮らしをしながら、ホームランをかっ飛ばすように何十万で絵を売る。
大切なことを学んだ。何より、表現者とは特別な場所にいるのではなく、君やぼくと同じような日常を過ごしていること。そのやりたいことをやるための環境は自分でつくるということ。アーティストとは誰に頼まれることもなく表現し続ける姿勢のこと。明日の保証なんてないこと。自然もまた生活の一部だということ。

ぼくはあのときに思い描いた生活をしている。つまり、やりたいことをやるために、できるだけライフコストを低くして、収入が少なくても不安にならないで、ほかと比較しないようにして(自分で望んだ楽しい人生なのだから)、作れるものは自分でつくる。そして、とにかく表現する。

昨晩はペットボトルの筏を修理して、手作りの竿も整備して、波の予報もチェックして22時に寝た。今朝は5時に起きた。うっすら雨が降っていたけど、海へクルマを走らせて、波はまだなかったから、ペットボトルの筏で海へ出て、竿を垂らして獲物を待った。向こうから漁師の船がやってきて「兄ちゃん、なんだそれ」「筏です」「そりゃいいな。頑張れよー」と海のうえで会話して、自然が生活の一部になっていると思えた。テトラのうえからは釣り人が笑っている。魚を待つのではなく、いるところにこっちから行って魚を獲る。これなら間違いない。ぼくはそう思ってテトラの釣り人を心のなかで笑った。

ところが釣れなかった。正確にはフグが二匹。最後は謎の魚に引っ張られて糸が切れて終了した。実際のところは根掛かりかもしれない。フグはリリースするから、結果収穫なし。悔しい。(このやり方で去年はかなり釣れた)

場所を移動してサーフィンをした。朝はなかった波があった。断わっておくけれどぼくは上手くない。それでも少しずつ上達している。それが何かをすることの喜びだと思う。比較する必要はない。それで止めてしまうくらいなら。自分自身と向き合うことがスポーツの楽しみだ。次はこうしたらどうだろう、とか、どうしてできなかったのかとか、集中しているときに考えることが楽しい。例えば、波のタイミングが分かってきて立てるようになったときや、例えば、波に乗るとき、引退した社長さんの話を想い出したり。

「開拓者にはならないんだ。一番より二番手がいい。最初の波に乗るより二番目の方がどうやったらいいか分かる。失敗が少ないんだ」という言葉。ほんとうだろうか。

昨日は波に乗らなった。その代わりに海藻を拾って、それを持って帰って、火を熾して煮て、その根に近いところは細かく微塵切りにして、庭で採れたキュウリと自生しているミョウガを刻んで混ぜたら、とても美味しかった。拾った海藻でも収穫があると一日の充実感が違う。だからと言って、魚が獲れた、獲れなかった、何匹だなんて、くれぐれもカウントしない方がいい。数えるということはゼロの豊かさを殺すことになる。食べ物が身の回りにあること、それに感謝するぐらいがいい。

3年前に植えた桃の実は、少しづつ大きくなってきた。5つ実って、3つ落ちて、あと2つ。今年はついに食べれるのだろうか。期待するとかえって手に入らなかったりする。だから、やっぱり数えたり期待しない方がいい。

生きる つくる 働く(仮)
次に出す本をここに書いてる。公開しながら。理路整然と並べるより、今日という一日を軸に言葉を巡らせれば、過去も未来もカテゴリーも横断できる。おまけにライブ感あって文章が生きてくるように思う。実験中。

生きる つくる 働く2

朝7時に目を覚まして、少し寝坊してしまったけど、妻チフミと海へ向かった。いま住んでいる場所からクルマで20分ほど、ぼくはサーフィンをするために、妻は去年まで住んでいた家の片づけをしながら洗濯をするために出かけた。

携帯のアプリで波を予測できる。けれども今日はハズレだった。友達は30分は波を見ると教えてくれたので眺めた。でもやっぱり波はなかった。近所のお婆さんにサーフィンをやっていると話したら「ワカメぐらい採ってこい」と言われたのを想い出した。よく見れば、波打ち際にいくと海藻が打ち上げられている。ワカメらしき海藻を拾ってみた。

北茨城市の海は、太平洋から波がくるので荒い日が多い。それでサーフィンをはじめた。もともとは、自分で作ったカヌーを乗るつもりで海に行っていた。でもカヌーで海に出れる場所もなく、浜からカヌーで漕ぎ出したら波に呑まれて転覆して、砂に巻き込まれて沈んでしまった。海から出すのにそれは苦労した。以来、カヌーはお休みになっていた。

今日はサーフィンを諦めて、去年までいた家に戻って拾った海藻をチフミに見せると「ワカメかもね」と言った。

家のまえに転がっている手作りカヌーを眺めているうちに北茨城の海に耐えられる舟をつくりたくなった。カヌーより気軽に乗れるペットボトルの筏も家の裏に置いてある。こっちは去年の夏に友達の子供と遊んでいて波に呑まれて壊れたままだった。カヌーや筏を見ているうちに思った。ペットボトルの筏とサーフボードを積んで海へ行こう。波があればサーフィンすればいいし、波がなければ筏で魚を釣ればいい。それから新しいカヌーをつくろう。

瞬間、瞬間、思いつくことをカタチにすること。これが創造の源だ。浮かんでは消える泡のような思考を行動に変える、それがぼくたちを活かしてくれる。創造なんて特別なことだと思うことなかれ。損得勘定抜きにアイディアを行動に変えることが出来れば、人は生きていける。人間も動物だから生存本能がある。考えるよりも感じるままに動けば去勢された生存本能が目を覚ます。それらしい理由をひねり出す必要もない。目的は「生きる」ことなのだから。

ぼくは妻と二人で芸術家として2017年に北茨城市に移住した。元々は東京に暮らしていた。ぼくたち夫婦が芸術家として独立したきっかけは2011年3月11日の東日本大震災だった。つまり9年前にぼくは、自分の生き方をつくる決意をした。それまでは音楽関係の仕事をしていた。「東京に暮らして働いて生きていく」という疑いようもない日常が、大震災で原発が爆発して、目の前の絶対不変だったはずの現実までもが揺らいだ。信じていたものは完全じゃなかった。ぼくはテレビやネットのニュースを見ながら、東京電力や政府の対応に文句を言っていた。けれども気が付いた。ぼくはこの問題について何もしてこなかった。知ろうとさえしていなかった。

どうしたら、この巨大な問題ー原発事故を解決できるのだろうか。
ぼくはそう考えた。もちろん、この巨大な問題とは、原発事故だけじゃない。社会や経済、政治、生活、あらゆる問題が複雑に絡まっている。あれれこれ考えた。けれど、ぼくがみつけた解決の糸口は単純だった。バカなのかもしれない。自分が変わるしかない。それが答えだった。誰かのせいにしない生き方。自分で選んでつくる生き方。それだったら、誰にも文句は言えない。すべて自分のせいだ。自分が生活するなかで選択するモノコトが、どういう事なのか、どういう経緯でつくられたモノなのか、それぞれの由来を知ったうえで、自分で理解して選び、生活の中に取り入れていけば、あとになって後悔したり文句を言ったりしなくて済む。

では、どうしたら自分の生き方をつくることができるのか。
世界中のいろんな生き方を知りたい。そう思った。そしてぼくたちは2年間の準備期間を経て、夫婦揃って会社を辞めて、ヨーロッパとアフリカを巡る旅へ出た。

*生きる つくる 働く(仮)
と題して本を書き始めた。今日で二日目。友達に自分の考えを伝えるために。ぼくたちが理想の生活をつくることがひとりひとりの幸せになる。ぼくたちが生きるのはお金のためじゃない。