レイモンド・ウィリアムズが指摘したようにそもそも「芸術」の原語artとは、古来、人々の種々の技術や技芸を指す言葉だった。しかし資本主義的商品生産が増大するなかで、モノの使用価値を、金銭的な交換価値に限定したり帰したりする動きが盛んになる。そこで人間が持つある種の技術や概念を、資本主義的商品生産が生む変化から守るために、今日的な意味を持つart概念が生まれていった。またウィリアムズは、創造性(creative, creativity)という語も、もともとは神による創世(creation, creature)という概念からスタートしているものの、徐々に「人間の行為」を指すものとして使用されるようになり、近代以降は、芸術という語と補完して使われるようになっていった。
「アートがひらく地域のこれから」小泉元宏
ここでは「不条理な論証」と訳したが、これを普通のフランス語として受け取れば、「理屈にならぬ理屈」「なんとも筋道の通らぬ論証」というような意味になるだろう。ところでカミュはこの「不条理」l'absurbeという語を特別な使い方をして、「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態」を「不条理」という、「不条理」とはこうした対立関係のことだと説明している。
「シーシュポスの神話」カミュ
訳者(清水徹)付記の解説より
移住してきた20代の女の子が、ほんとうにやりたいことを探しているという。彼女は仕事を依頼されて、それがほんとうにやりたいことか悩んでしまった。
「ほんとうにやりたいこと」なんてあるのだろうか。生きることと、やりたいことの生態系は別次元にある。つまり、やりたいことをやらなくても生きていくことはできる。やりたいことをやらなくても死なないようにできている。いや、社会の軸が貨幣資本主義で回っているから、つまり、他者からの評価や依頼されることの方に使用価値とか、金銭的な交換価値が生まれてしまう構造が、彼女の苦悩を生み出してしまっているとぼくは思う。
その一方で、70代の先輩たちと炭焼きをやっていて、急遽やることが決定したので、そのひとりに連絡した。現れた先輩は「今朝起きて何をやろうか考えてたからちょうどよかった」と言った。生きるということは、それぐらい軽くもなるから、まさに不条理だ。
人が岩を担いでるイメージが湧いてそれを作品にしたことがある。そのイメージはシジフォスの神話そのままだった。シジフォスは神の怒りに触れ、罰として山の麓から頂上まで岩を運び、頂上に到達すると再び麓に戻されてしまう。それを永遠に繰り返す罰を受けている。ということは、いまもそれは続いていて、それがまさに我々だったりするのだろう、とこちらにリーチしてくるのが神話の普遍性だ。
ぼくのイメージとしては、シジフォスと岩の両方が頂上から麓へと戻されていた。まるでリセットしたように、ことを繰り返すのだと思っていた。けれどもカミュのエッセイを読んでみるとイメージは違っていて、岩だけが麓に戻されてしまい、シジフォスは頂上から麓まで歩いて戻る、という。そのときに僅かな喜びがあると書いてあった。なるほど。イメージはそれぞれ。正解はない。
それでもぼくがシジフォスだったら、ループしていることを知りたいし、その単調な繰り返しのなかに楽しみを見出せることが、資本主義的商品生産から逸脱した生きるための芸術だと言える。それとも、何も知らずに頂上と麓を往復しているだけの方がもっと幸せだと思うのだろうか。