いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活の抵抗/ガンジー/ブルース/糸車

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「みんなの湯に行くよ」
と友達から連絡があった。
みんなの湯とは北茨城にある温泉でいわゆるお金を払って入湯する施設ではなく、石屋の神永さんが掘り当てた温泉で、諸事情から商売にしないで仲間たちに開放している秘密の場所だ。

掘り当てた温泉は温度が低いので、沸かすために廃材や木をいろんな人が持ち込んで沸かしている。その光景には、崩壊した文明のあと、人々がチカラを合わせて暮らしているような、さながらマッドマックスのような迫力がある。

その日も
行くと神永さんがいて
その横に糸車が置いてあった。

「糸車なんてどうしたんですか?」
と言うと

「燃やすのに持って来たんだけど、もったいないから取っておいたんだよ。使うかい?」

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偶然とは必然だ。混沌のなかに一筋の光が差すような出会い。景色が立ち上がる瞬間。それをフレーミングすること。ぼくの個人的な手法の話だけれど、それをアートと呼んでいる。

偶然が必然になったというのも1982年に公開されたガンジーの映画を図書館から借りていたからだ。マハトマ・ガンジーといえば糸車だ。この展開にもう運命すら感じた。ぼくは20代のころ、ガンジーと渾名されたこともある。

ガンジーの糸車は、イギリスの植民地になっていたインドが、自国で生産できるにも関わらず、その主要産業である綿花をイギリスに譲って、イギリスから輸入した綿花製品を消費して庶民は貧困を受け入れるという歪んだ社会状況下への抵抗の象徴だった。

ガンジーは糸を紡いで消費を生産に変えよう、インドをイギリスから独立させよう、とメッセージした。

目の前に糸車があるおかげで、坊主頭に丸いメガネをして腰巻きの痩せた老人、非暴力、非服従という、なにか偉人というイメージだけのガンジーが、実像を持って隣りに腰掛けて何かを伝えようとしているようだった。よく知っているメッセージの伝え方。そうだ、まるでロックミュージシャンのように。

聞いてくれ。
手元にはキーワード
ガンジー」「糸車」「綿花」がある。

まずは綿花に注目してみたい。なぜならコットンはロックの源流でもあるから。

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コットンをつくる技術はインダス文明がその起源であり、長くインドの特産品であった。インド産綿布は16世紀以来ヨーロッパに輸出されるようになった。17世紀には綿布はイギリス東インド会社の主要な輸入品となり、イギリスでの需要が高まったので、イギリスは逆に綿織物生産に乗り出すようになり、綿工業がイギリスの産業革命の原動力となった。

産業革命により大量生産されるようになった綿製品。それを支えたのが綿花プランテーションだった。アフリカから連れてこれらた奴隷たちがコットンを作り出すことで、その産業が成立した。そのフィールドがアメリカだった。

ちょうどいい。RAMBLEという映画の話しをしよう。1958年にリリースされたリンクレイというミュージシャンの曲が歌詞もないのに世間を騒がせた。歪んだギターに「騒ぎを起こす」というスラングの意味を持つタイトル。アンプに鉛筆で穴を開けて歪ませた彼がこのサウンドを発明していなかったらレッドツェッペリンもザフーも、パンクロックも誕生しなかったかもしれない。しかしリンク・レイはネイティブ・アメリカンをルーツに持つことから、この曲は世の中から抹消されたという。

話しを戻そう。アメリカ南部にアフリカから連れて来られた80%が男だった。当時のアメリカでは白人以外すべてが差別の対象だった。アメリカには奴隷以外に先住民もいて、そのネイティブ・アメリカンの男性の多くは白人に殺されていたから、アフリカン・アメリカンの男と、ネイティブ・アメリカンの女性が結ばれることは自然な流れだった。

しかしネイティブ・アメリカンであると知られれば、差別の最底辺へと押しやられることから、その出生を隠したまま、多くの人はアフリカン・アメリカンとして暮らした。

だからブルースのルーツは、アフリカだけでなくネイティブ・アメリカンにもあって、事実その痕跡はブルースを生み出すバックボーンとしてレコードに刻まれた。ジミ・ヘンドリックスネイティブ・アメリカンにルーツを持つことはよく知られている。とくに納得したのは、ニューオリンズのミュージシャンDr.Johnがインディアンの衣装を着ているのは、アメリカ南部のニューオリンズがまさに、その歴史そのものだったことを伝えている。

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一見ではどうでもいいような、娯楽や消費されていく出来事のなかにも意味が埋もれている。その意味が星座のように結びついて、過去の歴史に繋がる今を浮き彫りにする。産業革命プランテーションも植民地も、日本にも影響を与えている。過去に起きた出来事の延長線上にぼくたちはいまを生きている。だからすべては、今現在のぼくたちが生きている場所へと繋がっているのだ。

日本に暮らして2023年から見渡してみて、この今に糸車と綿花の物語から学ぶことがあるはずだ。

それはまさに糸を紡ぐことだ。過去の足跡を収集する。音楽を聴いたり本を読んだり、映画を観たりして。その足跡から受け継ぐひとつひとつの糸を手繰り寄せ、いま現在を紡ぎ直す必要がある。なぜなら、いつの時代も複雑に絡み合ったエラーのうえに成り立っているから。だから、争いは絶えないし、法律や政治を必要とする。けれども、そのひとつひとつでさえ、古くなったり、間違っていたりする。だから、常に現在地を確認して、どこへ向かうのか、その行き先の方へ顔を目を向ける。余談だけどサーフィンでは目線が行き先を決める。薪割りも斧を落とす場所を見る。ぼくはこうして思考し、行動し、文章にして、見る先を探している。

ガンジーのしたことは革命だ。けれども、もっと小さな次元で、ぼくたちは抵抗できるし、するべきだ。抵抗とはノーと叫ぶことでも反対することでもない。摩擦を起こすことだ。摩擦でエネルギーが生まれる。それは流されていくモノゴトに杭を打って流されないようにしてそれを観察することだ。

"In the place to be"とヒップホップのMCは言う。それを「いまいるべき場所」と日本のラッパーECDは訳した。その場所は流されていては辿り着かない。自分の意志で歩いた先にみつかる場所だ。歩くとは比喩でもあり、思考すること、書くこと、言葉にすること、絵にする、カタチにする、行動する、踊る、伝える、さまざまなアクションと表現手段に代用できる。

もっともっと社会を変えるべきだ。もっともっと生きやすい世の中になるように。日本の首相は、LGBTQの法改正について「社会が変わってしまう」答弁した。たくさんのエラーが集積するこの壊れた回路のような社会をそのままにしたいと願う、そんな政治があっていいのだろうか。

82歳の神永さんの「みんなの湯」は社会のルールの網目をすり抜けて成立している。神永さんの地域では昔から傷が治る湧水があった。調べると温泉成分があり、だったら自分の敷地でも出るだろうと、地下80メートルに掘り当てた。

温泉の温度は低いので温める必要があった。それでボイラーを試行錯誤して作った。中古の観光バスが更衣室になった。温めるとき、大量の木材を燃やす。だから警察が来たこともあるそうだ。けれどもこの温泉は商売ではないから、違法性がまったくない。個人の敷地内でやっていること。知り合いがその風呂を使っているだけ。

産業革命以前。何かを商売にしようとする前。そこにガンジーは立ってみせた。独立するという行為をやってみせた。それは生活をつくるということ。ガンジーはアシュラムという共同生活のコミューンをつくり、そこで自給自足のやり方を指導したという。それをスワラージ(スワ=自 ラージ=治)として提唱した。

小さな改革もできない人が
大きな改革を達成できるわけがない。
自分に与えられたものを最大に利用する人が
自分にできることを増やしていく。
このように生活を創り出せる人が
真に自然な生活を送ることになるのです。

カディーの誕生 マハトマ・ガンジー

生活なんて当たり前のこと過ぎるかもしれない。けれどもいまぼくたちが当たり前だと受け入れている生活は、ほんとうの生活じゃない。現代社会の都合上適当にカタチづくられた基本設定でしかない。時間の流れのなか、先にいるものたちの都合で選択したその残り、その断片の集合でしかない。だから発掘し作り直す。自分たちとその未来のために。

例えば、ゲームで初期設定に加えて、能力や武器をカスタマイズしてプレイできるとしたら、その機能を使うはずだ。同じように、ぼくたちは、自分のライフスタイルに応じて生活をカスタマイズできる。生活は唯一社会に侵蝕されていない聖域。

例えば空き家に暮らすなんてやり方は、家賃を払わなければならない、という前提を覆すことができる。ソーラーパネルを使って電気をつくり、電気代を支払わずに暮らすという選択肢もある。野菜を育てるとか、水を汲むとか、山の木を伐って燃料にするとか、狩猟採取とか、やれることはたくさんある。そんな貧乏臭いとか面倒とか感じる人もいるだろう。けれども、これは君やぼくのためじゃない。100年先の話をしている。自然環境のためでもない。人間が人間であるためにしてきたこと、その糸を紡ぎ続ける活動、その糸を紡ぎ続け、後世に伝える役割の話しをしている。

お金になるわけでもない。
誰かにやらされるのでもない。
だから仕事でもない。

快楽や欲望のために
生きることを
奪われないために
抵抗する
遊び。

いつの時代もエラーの集積でしかない。だから社会をハッキングして、エラーを修正して、糸を紡ぎ直す。その繰り返しが、大地を耕すように社会を作り直していく。

音楽が、ブルースやロックが伝えてきたのはそういうメッセージなんだと思う。けれども長い時間のなかで音楽も社会の構造に飲み込まれて商品になってしまった。いつのまにか、お金のための仕事になってしまった。遊びではなくなってしまった。その余地は、わずか生活に残されている。会社に行かない時間、誰にも頼まれてない一日の余白に自由は残されている。それは暇と呼ばれている。独立のために残された僅かな、立ち上がるための足場。

自給自足のススメをしたいわけではない。「生活をつくる」という音楽のような抵抗の在り方を伝えてみたかった。生活のすべてが消費で埋め尽くされる今の時代にあえて、自らの手で「生活」という社会から一時的に独立できる、その余地で抵抗することを提案したい。何のために? 数の多い方だけへ流されないために。

糸車を回さなくても、歌を歌わなくても、日々の暮らしをつくることで、ぼくらは未来へと続く社会をつくることができる。誰もができる生活をつくること、それを生活芸術と呼んでいる。