いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

新しい経済のデッサン。

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個展3日目。理想の暮らしを作ると始めた生活芸術の実践がカタチになった。

1.作品をつくる。

2.その環境をつくる。

3.作品を売る場所をつくる。

4.作品を買ってくれる人に出会う。

 

簡単に言えば、1.生産、2.生産に適した環境、3.卸先、4.購入者。この4つの要素は「生産して流通して販売する」という商売の基本的な要素で、どんな商売にも当てはまる、と思う。

これが成立するなら、生きるための芸術というコンセプトで起業した商売が回りはじめたと言うことができる。やっとこんな当たり前のことができるようになった。

 

人が回り道をしてしまうのは、社会のなかで生きることが、単純に生きることとは別の指向性を要求されるからだ。むしろ、ここで「別の指向性」と呼んでるものこそが、普通の社会が要求してくることで、それが何かと言えば経済活動だ。

 

働いて仕事をしてお金を得る。仕事を拡大して経済効果を高めていく。つまり仕事の規模を拡大していく。いまの社会が要求しているのはこのサイクルだけれど、ぼくが理想とするのはこれではない。何かしらの影響を拡大していくことはあっても、拡大するのが経済だけであってはいけないし、経済を活性化させることだけが目的になってしまえば社会構造の袋小路に迷い込んで、マトリックスのような世界で暮らし続けることになる。

目的はエクソダス。その迷宮から脱出する。次の世代に自信を持ってバトンを渡し、受ける方も喜んで受け取るような、社会の構造を描いてみたい。この点ではひとつの社会思想をつくりたいと考えている。

 

それはミニマムなことで、1973年にイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハが「スモールイズビューティフル」で描いた考え方に近い。詳しい説明は省くー

大量消費を幸福度の指標とする現代経済学と、科学万能主義に疑問を投げかけ、仏教などの東洋思想を取り入れ、大量消費社会を批判し、

小さいこと
簡素なこと
安い資本でできること
非暴力的であること

を提唱しているー

 

ぼくら檻之汰鷲の活動も、妻チフミと最大二人のチームで、できる限りのことをDIYして生きている。つまり、誰かを利用したり頼ったりしないで、簡素に小さい生活を作ろうとしている。

 

スモールであることは、あらゆる場面でエコロジーだということができる。気をつけたいのは、言葉の特性についてで、エコロジー(Ecology)とは本来は「生態学」を意味する単語だったけれど、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方の「エコ」として定着している。けれども、その根を掘り返してみれば、豊かな意味が溢れてくる。

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Ecologyとは、自然界の生物の生存のための活動を、古代ギリシアの市民の家政機関であるοἶκος(オイコス)にたとえて、オイコスを成立せしめるλόγος(ロゴス:理論)を究明する学問を意味する。

一方、Economyは古代ギリシア語のoikonomia (オイコノミア)から来ている。... oikos=house で「家庭」のこと、nomia=nomos 英語のlaw。ギリシア時代には、経済だけでなく「家」を守るルール全般を意味した

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そのはじまりの意味を掘り返してみれば「エコ」という言葉が「電気代の節約」のような表面的な意味になってしまっていることを知る。

言葉は、時代によって定義を変えていくから、それはそれで、常にその言葉のルーツを確認して定義し直さなければ、ぼくらはこの社会のシステムからエクソダス(脱出)できない。本来、人間が自らを成長させ、社会を変革するために生み出された言葉たちは、流通するなかで、意味を削り取られ軽くなり、個性を失い、単なる商品を説明するキーワードに成り果てている。言葉は思想をつくる武器になる。その刃を研いで社会を彫刻する道具へ作り変える。

 

すべてを原点回帰させることが生きるための芸術を実践するツールになる。常識や当たり前とは違うライフスタイルを創造するには、当たり前や常識の根底から掘り返して新しい根を張り直す必要がある。

 

もちろん、スモールイズビューティフルを実践すると言っても、二人だけで何でもできるわけではなく、たくさんの人に助けられて現在に至っている。それは利用したり依存したりする関係性ではないから新しい相互作用を生むことができる。自然発生する対価を観察することで、そこにエコロジー(生態環境)とエコノミー(経済)という言葉が持っていた環境経済のような実践を表現できる、そういう希望がある。

 

例えば、有楽町マルイで個展をやらしてもらえるのは、当然ながら、この場所を提供してもらえるからで、その場所に対して対価を発生させたい。マルイとの関係を繋いでくれた「よしもと」さんにも対価を返したい。もちろん、ぼくたちの作品を買ってくれる人に対価を返したい。そして、ぼくたちが拠点にしている北茨城市や、地域の人々にも対価を返したい。そのすべてに還元したいという意味で、自分たちがしていることの規模を拡大したい、という欲望がある。

 

たぶん、これは商売として当たり前のことなのかもしれない。けれども、商売がビジネスとなって、お金の実体もなくなり、取り引きする相手同士の顔も見えない現代では、とっくりにこの基本は、失われている。顔が見えない相手がどうなろうと、知る由もない、それがいまの社会の実情で、コーヒーを飲むごとに地球の反対側で搾取され苦しむ人々がいることや、チョコレートもそうだし、ファストファッションがそうした犠牲の上に成り立っていることと繋がっている。つまり、ぼくたちひとりひとりが何を生産して消費するのか、その端から端まで把握できるモノコトを支持するようになって、環境経済が成立する。もちろん、これは空想の産物だけれど、イメージできることは実現できる。小さければできる。経済を肥大化させない。その意味でスモールイズビューティフルが武器になる。

 

何のために作品を作り、それを販売するのか。作品は、どこからやってきて、どうなっていくのか。ぼくは「表現」を通して、あらゆる現象に迫ってみたい。モノや人やコトに徹底的に向き合ってみたい。そのためにはお金から自由な立場にいる必要がある。自分自身は、対価を要求しないという自由さ。ゼロという空虚に自分を立たせ、周辺に価値を拡散していく。それには、もっと多層的な実践が必要になる。

これらをどう展開させていくのか。3冊目の本を書いて、現在を終わらせて、次の夢の中へと、新しい冒険に踏み出そう。今回の個展は、その意味で多くを学ばせてもらっている。