いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生産と創造を日々の暮らしに

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ぼくはこれまでに3回の交通事故に遭っている。1回目は小学生になる前、近所のスーパーマーケットの前の道路を横断しようとしてクルマにはねられた。2回目は20歳の頃、自転車に乗っているとき、後ろから追突されて。3回目は、生きるための芸術の冒頭に書いた次第。

2回目のとき、左足首を骨折し、手術をしてボルトを入れることになった。今までは自然のままだった身体にボルトを入れることで都市化される気持ちになった。つまり、大地を削り、コンクリートで固めて、鉄骨のビルが並ぶ都市を作られる地球の気持ちになった。

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自然と人間の関係は、これからもっと重要な課題になっていくと思う。今年の夏には台風が西日本に2回も上陸して、甚大な被害を与えている。昨日、北海道で震度6地震があったと報道された。

自然をコントロールすることはできない。もしかしたら、科学の進歩でそんなことが可能になるかもしれない。けれども、自然は人間の想像力を遥かに超える。コントロールできたとしても、「できない」ということを基準にして、受け入れることが、それこそ自然なんだと思う。

日本の農林水産の生産性は、アメリカの50分の1しかないらしい。ヨーロッパの平均の10分の1。これに対して、いろんな意見がある。「日本の」という視点で測れば、それを制度や政治、時代のせいにする向きもある。そうだ、今の政権が悪い。確かにそういう話しもできる。テレビやネットの画面の前で。もしくは友人と酒を酌み交わしながら。

だが、ぼくは言いたい。世の中の問題を自分自身の尺度で測り直してみれば、つまり自分がどれだけ農林水産的な生産しているのか省みると、話の向きは変わってこないだろうか。

誰が森に足を運んでいるだろうか。誰が海の状態を気にかけているだろうか、誰が畑を耕したり土に触っているのだろうか。いや、俺の仕事は一次産業ではないから、と友達は言う。つまり、そういう人間が日本人のほとんどだ。

だから、ぼくは自分自身を政治して自分自身の農林水産の生産性を上げてみようと思う。森に入って道を整備する。畑を耕して食料を手に入れる。海で釣りをする。これがぼくの次の理想だ。生産と創造。

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昨日、測量をやっている友達にアルバイトに誘ってもらった。海老沢くんは、北茨城市の山の中を測量していて、道なき道を開拓して歩く。その仕事に興味を持って、参加させてもらうと、家から歩いて20分ぐらいの場所だった。田んぼを抜けて山の中へ入っていくと、釣り堀がある。会員制のシークレット釣り堀。驚きのプレイスポット。山の入り口には、3メートル級の岩があって注連縄がしてある。

ミッションは、山の頂上へのルートを開拓しながら測量する。ぼくは、荷物を運んだり、言われた通りに働く道具になった。山の中を開拓していくと、確かに道があった形跡がある。歩きながら、何百年前の旅人の気分になる。けもの道もある。測量する海老沢くんは方向感覚に優れて、山の中をどんどん歩いて目的地にたどり着く。自然を読む技術を持っている。

ぼくが暮らす北茨城市は、人の手が入っていない、開発されていない地域がたくさんある。この地に暮らして、自然に働きかける芸術をやりたいと思っている。これが難しい。自然は美術館にもギャラリーにもないし、石や木やカボチャをアートだと展示するわけにもいかない。いや、そうできる離れ業もきっとある。便器をアートにした偉人もいるわけだから。そう思って生活をアートにしたいと企む。けれども生活はあまりに当たり前のことだからアートには転換できない。簡単には。ぼくにとって芸術に思えることが、ある人には、当たり前の日常の出来事に過ぎないことがある。例えば「田んぼ」を作ることは、あらゆる生きるための技術が集まったアートだと思う。けれども田んぼはアートではなく田んぼだと言われる。

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 それでも自分が美しいと思うものを信じて、当たり前と日常と芸術、それぞれの領域が交わるところに生きてみようと思う。3年間、空き家に取り組んできて家に困らなくなったように、食料を生産しながらアート作品を創造していきたい。これから100年ぐらい通用するライフスタイル「生活芸術」を表現してみたい。生活の中に「生産と創造」を増やせば景色が変わる。イメージできるなら、やれないことはない。はじめに言葉ありき。次に行動。伝えて動けば未来は変わる。