いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

心が動くままにつくること

茨城県北茨城市の奥地で、古民家を改修していて、古材を切り落とした端材に目が止まった。それがこれ。

f:id:norioishiwata:20171211220801j:plainぼくは、アートが好きで常につくっていたい。シンプルに言えば、没頭しているのが好きだ。なかでも、偶然現れるカタチが好きで、どうやったらそれに遭遇できるのか、いつも考えている。

つくるとき、まず自分がビックリしたい。だから、絵を何枚も描いたあとに現れる床のペンキの跡や、傷だらけの古材、コラージュで切った雑誌の使わなかった端片、さらにはその裏側、失敗した作品、偶然ひょんなことで遭遇するカタチたち。

そいつらは、何かをしているときに、目的とは違う、別な何かを発見するセレンディピティという現象で説明される。それは失敗を成功に変える奇跡であり、科学者や発明家が何かを発見するテクニックのひとつでもある。

f:id:norioishiwata:20171211220938j:plainこれは「見立て」という言葉でも説明できる。調べてみると「見立て」は日本独自の芸術技法らしい。「モノ本来の姿ではなく、別のモノとして見る」これは和歌や漢詩からきた文学表現を利用して、千利休が生活用品を茶道具に取り入れたことに由来される。

ぼくはいま、言葉を並べて、偶然に発見した得体の知れない端材に価値を与えようとしている。

例えば、マルセル・デュシャンが便器を展示して、日用品である便器をアートにしてしまった事件は、どうだろうか。現代アートには、まるで何でもアート作品にできるような感があるけれど、実は、それには相当なテクニックが必要で、すべての便器がアートになる訳ではない。その仕事は、脱獄映画や銀行強盗の完全犯罪のように用意周到にギャラリーに運び込んで、最初から最後までアート作品のフリをした便器がついにアート作品になってしまった唯一無二の事件。つまり、決して便器など持ち込めないと信じられている神聖な場所に、穢らわしい便器を芸術品として提示して、嘘を本物にしてしまった。その記録保持者がマルセル・デュシャンという訳だ。

f:id:norioishiwata:20171211220613j:plainぼくは、何かテクニック的に優れた作品をつくりたいという願望よりも、芸術の範囲を広げたい。芸術がもっと日常生活のなかに、高いところよりも低いところへ水が流れていくように、広がっていけばよいと思っている。なぜなら、日々の暮らしのなかに感動する機会が増えた方が、より多くの人生が楽しくなる。カッコつけて理解されないより、カッコ悪くて笑われる方がいい。

それこそが、ぼくの考えている生活芸術で、先日、海外の友達に最近何をしている?と聞かれたので「日本でリビングアート(生活芸術)というコンセプトをつくってる」と説明すると「それは面白いね、それが表現できたらヤバいね、どんな作品になるのか見せてね」と返信をくれた。パートナーのチフミは「生活芸術が分からないから、ひとことで説明して」と言って、ぼくが「芸術は人生だ」と答えると「やっぱり分からない」と即答してくれた。つまり、ぼくには、まだ生活芸術とはなんぞや、その問答の入り口さえ見つかっていない。

有名な哲学者ニーチェは「生きる」を哲学の最優先事項にした。人生を神に捧げさせる宗教を相手に「神は死んだ」と宣言した。つまり神なんて存在しないのだから、神に祈るくらないなら「自分の人生を生きろ」という態度。キリスト教の影響下のヨーロッパで、そうニーチェが宣言できたのは、人間にとって「生きる」ほど重要なことはないという確信があったのだと思う。ルドルフ・シュタイナーが書いた「ニーチェ みずからの時代と闘うもの」を読んで初めてニーチェを理解できて親しい気持ちになれた。

ぼくは、切り落とした端材を作品のリストに加えた。ぼくはいくつか作品をストックしている。なぜなら、アート作品には「時間/time, 場所/place, 機会/opportunity」がとても重要だから。

昔に読んだ本にこう書いてあった。「芸術作品は、鑑賞されて初めて芸術になる。それは、花の蜜をミツバチが集めて甘くなるように、作品はたくさんの人の目に触れて成長し、芸術作品となる。」

何だってタイミングが支配している。友達と出会うのも、タイミングだし、生涯の伴侶と出会うのもタイミング。それを運命と呼ぶひともいる。ぼくは、タイミングは、波乗りみたいなことだと思う。波を掴めるかどうか、それが作品の生き死にを決めるタイミングでもある。

f:id:norioishiwata:20171201102541j:plain先日、隣まちの温泉にいったら、有名な落穂拾いのプリント画が飾ってあった。3人の女性が、並んで畑仕事をしているような絵。人間と自然の循環が見えて、何度も見ていたけれど、はじめて素敵な絵だと思った。ネットで調べてみると、フランスの画家、ミレーの作品だった。絵が描かれた1850年ころは、収穫の際に落ちた穂は、拾わないという風習があった。なぜなら、貧しいひとたちが、拾って生き延びる余地を残したらしい。だから、この絵が発表されたとき、賎しい絵だと批判された。

つまり、この絵は美しいだけでなく、同時に穢らわしくもある。ぼくは何も知らずに、この絵に感動した。予期しないタイミングで、この絵と出会ったことで、素直にこの作品と向かい合うことができた。感動には、偽物も本物もない。目の前にあるカタチ、それしかない。心が動くとき、そこには古いも新しいも偽物も本物も関係なくなるときがある。最近思うのは、ぼくの心が動くままにつくること、それができれば、いつか誰かを感動させることができる。これが正しいからと選択するなら、もはやそれは正しくないし、美しいからと真似るのであれば、そこには美しさの微塵もない。

f:id:norioishiwata:20171211221307j:plain明日も、朝起きて、1日を過ごし、その日の出来事に感動したい。出会ったとき、何を感じるか。何を受け取るのか。まだまだやれる。