いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

小さな理想を描く世界を創造する手段。

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藪の整備をした。自分たちだけでは、気が遠くなるので、植木屋さんに依頼して、妻と自分も参加した。おかげで、予想以上に片付いた。全4日予定の1日が終わった。それだけでも書きたいことがいつくも浮かんできた。

藪とは、木や竹が自由に伸び放題になっていることを言う。聞く話によると、50年前、60年前のこの地域、北茨城市の山間部には、藪なんてなかったそうだ。藪がない理由は、牛や馬がいて、その餌にするために草を刈り込んでいたからだ。

ところが現在は馬も牛もいないし、畑も田んぼもやらなっているから、至るところ草や木が伸び放題になっている。ある意味では、この方が、人間の手が入らないまま、草木は自由に繁茂している方が自然だ。

それでも「景観」という観点では、人間の手が入っている方が美しい。そう感じる。そもそも「美しい」という概念自体が人間のものだから、人間の一方的な感覚でしかない。自分も人間だからやっぱり美しい方がいいと思う。そういう理由で藪を整備している。

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しかし、この藪に生えている草木も、そもそも理由があって先人たちは植えた。目下の敵は竹なのだけれど、竹はかつては、プラスティックの代わりだった。皮はサランラップのように食料を包んだし、籠を編んだり、生垣だったり、建材としても重宝されたらしい。が、いまでは、あまり利用価値がなくなってしまった。ぼくは竹を材料に舟を作るつもりだ。(今回はその話しではないので割愛する。)

藪を整理していくと、トタンやら廃材やら、土に埋まっているモノが発掘された。この場所で養鶏をやっていたと聞いたことがある。実は、5〜60年前には、環境に対するモラルは今よりずっと低かった。だから、見えなければ良いという感覚で、その辺に埋めていた。そういうモノがたくさん地中に隠されている。今だったら犯罪と言えるレベルの不法投棄が行われていた。それは、今よりもずっと自然が豊かで、自然環境が損なわれるとは想像できなかったからだ。

藪を整備しただけでも、時代の流れ、感覚や常識の変遷を体感する訳で、今が特別、環境に対して負荷をかけているのではなく、常に人間は自然に対して何かしからの過ちを犯していて、宗教が示すように、反省、懺悔の生き物なので、その点、過去より今の方がずっと環境に対して意識は行き届いている。もちろん、かつての投棄と同じような誤ちは、今でもカタチを変えて行われているだろうとは予測できる。自覚できない次元で。

今できないことを嘆いても前には進まない。何より社会の課題と感じるのは、目の前の問題を全体論にすり替える議論について。

つまり「そんなことをしたら社会全体が〜」みたいな話のこと。そんな言い分は何の解決にもならない。例えば、原発を止めたら社会全体の電力が〜、みたいなことよりも、君はどう感じて、それに対してどうアクションを起こすか、もしくは起こさないのか、その二択でしかない。そうすれば、答えは明快に出てくる。個人的にも、全体的にも。

これだけ社会全体が見渡せる時代なのだから、目の前の問題の最大公倍数を語るのではなく、ひとつひとつの問題を自分に手繰り寄せて個々が解決していけば、世界は美しくなる。世界とは、一人ひとりが見ている現実。

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目の前の藪を整備している。ここの藪はこの数年間の課題だった。景観を作るというプロジェクトで、やっとこの藪に辿り着いた。ぼくと妻は、北茨城市の山間部で、目の前の問題をひとつひとつ片付てみている。それこそが、ヨーゼフボイスが提唱した社会彫刻と呼べる現代のアートの実践だと思う。目の前の課題と向き合うこと。最先端の表現は、目の前を美しくすることにある。一人ひとりの人間が目の前に理想を作り出すことができれば、どれだけ世界は美しくなるか、そう想像すること自体、人間のエゴでしかないのかもしれない。何もしない方が地球環境には良いという結論かもしれない。それでも、ぼくは、小さな理想を描く以外に世界を創造する手段を知らない。