いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

脱・現代社会。ポスト自由人へ。

友達のDくんと電話で話した。面白い状況にいたので記録してみることにした。D君は、肩書で言えばアート・プロデューサー。高円寺を拠点にアートホテルの立ち上げに関わったり、街中に巨大な壁画を出現させるプロジェクトを手掛けてきた。

けれどもDくんは、そういう方向性ではなく、自分がやりたいことを直感的にやっていきたいと言う。つまりお金を稼ぐということではなく、そういう計算とは別のところで活動してく方向を模索していると話してくれた。

これまで育ててきたプロジェクトは、できるだけ人に譲る方向で調整しているらしい。そうやって少しずつ自由になろうとしている。しかしD君は、自由になるほどにある問題に気が付いた。自由になるほど、いくらでも怠けることができてしまうことに気が付いた。「面倒臭い」という言葉で幾らでも先延ばしにできてしまう。というものD君には、これまで手掛けてきたプロジェクトの不労所得が十数万円ある。おまけに高円寺という街で活動してきて、スキル・トレードという貨幣価値に依存しない仕事のやり方を模索してきた甲斐あって、飲食店でお金を払わずに食事できる環境にもいる。もちろん対価としてやるべきことはあるとしても、お金を勘定しなくても生きていける状態にある。何をしてもいい、という状態は、自由な自分を思い通りに動かさなければならないという、自由ならではの不自由さに直面している、という話だった。

つまり簡単に言えば、D君は東京に暮らしながら、働かなくても生きていける環境を手にしている。働いていない訳ではないけれど、会社に行っているのでも、どこかに所属しているのでもない。無職やフリーターというのもまた違う。これまでしたきたことの余剰分で生きている。ずっと続く訳でもないだろうし、一時的な安全地帯に生きている。なんて呼んだらいいのか、名付ければいいのか、これもまた新しいライフスタイルだと思った。当たり前のように働いて、お金を増やして、肩書や地位を向上させて、その競技に参加するのであれば、そんな状態にはならいだろうけれど、このコロナ禍では、今までの社会が強制してきたようなパワーゲームから外れてしまうことも、洗脳が解けるように、D君のような状態になることもありえる、と感じだ。

そんなD君に「欲はないのか」と質問してみた。
「世界平和」とD君は答えた。そして付け加えた。「世界平和と言っても、誰かを直接的に支援するということじゃなくて、自分のすることが世の中を良くしていくような活動はしたいと思う。だからお金じゃないところで行動しているんだけど。無償でやってもいいと思えることだけをやっていて。最近感じているのはSNSも結局は、同じ価値観の共有だし、優劣とか強いモノへの追従とか、そういうの飽きたし、むしろ、リアルなところ、つまり現実、目の前のこと、自分がやりたいと感じることを自分にやらせたいなと思っている」