いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活の環境をつくる。

学校を卒業するにあたって、何の仕事をするのか、という選択肢を脅迫される。仕事をしなければ、人間として認めてもらえないような気持ちになるほどに。

ぼくは仕事をしたくなかった。働きたくなかった。好きなことに没頭していたかった。でも、そんな逃げ道は、みつからなくて、嫌々ながらに仕事をしてきた。今は違う。働くのが楽しい。

なぜ働くのか。という疑問について学校も社会も教えてくれない。働かなかったらどうなってしまうのか。先に答えてしまえば、別に何も起こらない。ただ生きている。すごく時間があることに気がつく。暇になる。で結局、また働いたりする。働くには二つある。自分で仕事をつくるか、与えられた仕事をやるのか。

どうせ、働くなら楽しいことをやった方がいい。自分から「やりたい」と手を挙げたくなるような仕事を。

 

仕事をする理由のひとつにお金を手に入れるという目的がある。お金がないと生活するのにとても不便だ。基本的に必要なものが手に入らない。けれども、そのためだけに働いているかと言えばそうでもない。何の仕事をしているか、というステータスもモチベーションになる。憧れの職業とは、カッコよさの指標でもある。

じゃあ、カッコつけるために、朝から晩まで我慢しながら働いているのだろうか。お金が必要だから働いているのだろうか。ほとんどの場合、この疑問について、答えを見つけ出す前に、見ないように蓋をしている。考えても仕方ない、と。

 

いま、ぼくは廃墟を片付けて、荒地を整地して、生活空間をつくろうとしている。仕事かと問われれば、これが仕事だと答える。でも誰かに依頼されたのでも、やらされてるのでもない。将来きっと価値が生まれるだろう事に投資している。時間と労力を。そしてこれは、自分のアート作品になる計画でもある。

この仕事は、空き家再生というよりは開拓に近い。廃棄物が山になって、雑草が生え放題の荒地。もちろん、水も電気もトイレもない。そんな場所を再生するには、どんな着地点があるのか、やりながら考えている。これをやる最大のモチベーションは、社会のマイナスをプラスに転換できること。社会彫刻というアートを実践できること。社会彫刻は、ドイツの芸術家ヨーゼフボイスがつくったコンセプトだ。

社会のカタチを浮き彫りにするアート作品。なんならそのカタチをより理想に近づける表現。

 

このどうしようもない、手を施しようもなく荒れた空間を見て思った。直ちにお金になることばかりにしか人間が取り組まないなら、社会はどんどん歪んでいく。なぜなら、貨幣経済は高みを目指すゲームだから、どんどん切り捨てられていく。1万円になる仕事より2万円の仕事に人は集まり、5万円の仕事が生まれたら、1万円の仕事は誰もやらなくなる。けれども、お金にならないことをお金に変えることができれば、それはゼロをイチに変える魔法になる。まるで現代の錬金術

電気もトイレも水道もない荒地に生活空間をつくる試みは、すべてのないをあるに変換する。水を自給する方法、下水がない場所にトイレをつくる方法。当たり前に与えらている環境がなくなったとき、ぼくらはどうやって生き延びるのか。

この手の施しようのない空間は、そういうテーマを与えてくれる。そもそも、産業廃棄物はどのように処理できるのか。ゴミはどうやって処理されているのか。ぼくたちが、日々どんどん出しているゴミはほんとうに問題ないのだろうか?

疑問に思ったことを追求していけば、そこには道が現れる。自分がみつけた小径を進めば、いくつもの大きな道を経由して、自分の答えに辿り着く。それが哲学だと思う。誰かが考えたことを検証するのではなく、自分の問いにひたすらに答えていく。お金以外の理由で、進むべき道が現れたら、とりあえず進んでみた方がいい。その先は歩いた人にしか分からない世界が待っている。

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