「忙しい」とは、心を亡くすと意味だ。けれど、どうやっても忙しくなってしまう。忙しくても忙しいと思わない、それだけで全然話しの流れは変わっていく。
毎日やることが山ほどあるけど、忙しいとはまったく思わない。毎日やることが山ほどあって忙しくて仕方ない。この二つの文章は同じ状況でありながら、感じ方によってアウトプットが違っている。
ひとつはっきりしているのは、誰もが一日24時間しか持っていない。時間は借りることも貸すこともできない。ところが、ぼくたちは、平気でこの貴重な時間をあらゆるサービスや商品と引き換えに失っていく。さらには仕事にそのほとんどを売り渡してしまう。
もちろん、生きていくうえでお金は必要だから会社で働いたり、仕事を請けて時間を費やし、その対価としてお金を得るのは真っ当なやり方。それでいい。
けれど、そうしているうちに、自分の時間の価値を見失ってしまう。
何もすることがない時間を「暇」だと名付けてしまう。「暇」とは誰からも依頼もなければ、用事もない自分が生まれ持った純粋な時間のことだ。この「暇」な時間こそが人生をつくるための原石であり、この時間の使い方が人生をクリエイティブに変えてくれる。「暇」とはとても貴重な空白ことで、ゼロから何かをスタートするには、この空白が絶対に必要になる。
5月の後半は予定が次から次へと決まって、この先の予定も入ってきて、今迄からすれば、ずいぶんと忙しくなってきた。それは喜ばしいことであると同時に、空白が失われていくことでもある。絵を描くという行為は、まさにゼロから作り上げることなので、誰にも頼まれない純粋な時間があってこそ集中できる。だから、社会生活のなかでぼくの立ち位置は矛盾してくる。頼まれた仕事をしないとお金が入ってこない。でも頼まれ仕事はがりしていると、純粋な時間がなくなっていく。
そんなことを書いておきながら、先週は草刈りばかりをしていた。荒地を開墾していて、廃墟を再生しようと企んでいる。草刈りは、絵を描くことに例えるなら、キャンバスを下塗りする作業だ。ところが、このキャンバスには産業廃棄物が投棄されていて、真っ白に塗り潰せない。だから、なんとかアトリエのある集落からこれを撤去したい。
空き家改修をやるうちに庭という人間と自然の境界線に気がつき、庭を拡大していくと、アトリエのある揚枝方という集落がキャンバスに思えている。ランドアートをやりたい。自然に働きかけて景観をつくりたい。このアート作品は、お金になるか分からない。たぶんならない。だから、絵を描いてお金を作りたいと思う。そう考えていたら、もっと具体的なデザインの仕事、ワークショップの依頼、CDのジャケット、イベントのフライヤー、Tシャツのデザインが立て続けに来るよになった。すべて10年前にはぜひやりたい仕事だった。そうやって経済活動が活性化する一方でお金にならないことをやりたい。その行為からも生まれる価値がある。
草刈りをしていたら、竹が欲しいと現れた老人がいて、話しをしていたら、表装を教えているという。掛け軸を作品にしたいと思っていたから、教えてもうことにした。掛け軸は、日本独特の文化で、オリジナルの掛け軸はキャンバスよりも日本人らしさを強調したアート作品に仕上げることができる。しかも持ち運びに優れている。
アトリエの古民家を見学に来てくれた人がいた。久しぶりの超人だった。一日一食で、ほぼ時給自足だと言う。超人は、畑をイノシシに荒らされたことがないと言う。田舎で畑をやったことがある人なら分かると思うけれど、獣害はなかなか厳しい。植えた未来の食料を奪われるのだから。
ところが超人は、イノシシの食べる分を山に植えているそうだ。食べ物をシェアして、山を下刈りして見通しをよくすれば、イノシシは人里に降りてこない。
今週は美術館の学芸員さんからワークショップの仕事を依頼され、とある企業の研修のアーティストとして10年以上付き合いのある美術関係者から講師に招いてもらった。
8月にあるバンドのリハーサルも先週と今週、東京でスタジオに入っている。ドラムのトリッキーが誘ってもらい渋谷のLa-mamaでやる。
すべては、人の繋がりだ。ぼくを知っている人から価値を認めてもらって生きている。そのすべてに200%応えてこそ、これまでやってきた意味がある。やりたいことをやっているなら、そのやりたいこと全部に結果を出せ。
一日は24時間。それが7日で1週間。リズムの取り方だ。今日やれることは今日やって、明日やれることを少しでも今日やっておけば、明日は明日の仕事が始まる。まだこのくらいなら大丈夫。もっと仕事をして絵を描こう。