アートはどこにあるのか。ぼくがそう問い続けるのは、ぼくが信じるところのアートに育てられてきたからだ。
それは至るところにあった。ぼくがアートと出会ったのは音楽だった。いくつかのレコード・ジャケットは、有名なアーティストの手によるものだった。ぼくは音楽が好きで、常に新しい音楽を掘り進めていくと、その果てには「無音が音楽である」という発想に出会った。それがジョン・ケージの「4:33」だ。無音が音楽。ピアノの蓋を閉じて4:33秒間、演奏をしない。そこに現れたのは、無音ではなく、咳や騒めき、小さな音の断片が浮き彫りになった。
その発想の背景には、禅の思想がある。禅を世界に紹介したのは鈴木大拙。ぼくは、その本も読み漁った。問うこと、考えることもぼくの遊びのひとつになった。
もうひとつ、「4:33」に影響を与えているのがマルセル・デュシャンの「泉」。便器をアート作品にした20世紀最大の芸術的な転換点。
ビートルズのホワイト・アルバムは、真っ白なデザインで「The Beatles」の文字のところだけ凹んでいる。手掛けたのはリチャード・ハミルトンというアーティストで、その代表作は「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか(1957)」で、それはポップアートとして最初期の傑作として位置づけられている。
「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか(1957)」
ポップアートとして最も有名な、ベルベット・アンダーグラウンドの1stアルバム、バナナのシルクスクリーンのジャケットは、アンディーウォーホールが手掛けていたし、ソニックユースのロウソクのジャケット「Day Dream Nation(1988)」は、いまでこそ有名な、ゲバルト・リヒターの作品だった。ソニック・ユースは、アルバム「DIRTY」でマイク・ケリーの作品も表紙にしている。
音楽を愛するほどにアートに接する機会は増えていった。レコードの表紙から溢れるイメージは、ぼくにとってアートの始まりだった。けれどアートとは、特別な何かで、それを表現できる人もまた特別な何かを持っている人だと思っていた。そう思いながらも、やらずにはいられない衝動があった。なぜなら「無音が音楽である」「便器がアート」「真っ白が最高傑作のアルバム」という前例が揃っている。
それらは、ぼくに何かをやらせるには充分なほど、無茶苦茶に破綻したコンセプトに思えた。
「俺にもできる」
まだ大学生だった自分は、そう勘違いしてコラージュを始めた。
それは架空のレコードジャケットだった。