いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

爆発する芸術。蔡國強(さいこっきょう)と「ギャラリーいわき」のこと

蔡國強を知っているだろうか。火薬を爆破させて描く作品や群れをなす狼の剥製で知られる中国出身の芸術家。

今日は、その蔡國強(さいこっきょう)が作品を抱えて日本でギャラリー回りをしていた頃から現在に至るまで、ひとりの芸術家がどうやって世界で突出していったのか、その話しを聞くことができた。蔡國強(さいこっきょう)の魅力を早くから見抜いて共に活動してきたギャラリーいわきの藤田さんが話してくれた。

ギャラリーいわきは、北茨城に引っ越してから、よく名前を聞いていたギャラリーだった。
ぼくたちが改修したアトリエarigateeに、今週いっぱい滋賀県のガラス作家の大下さんが滞在していて、彼の個展がギャラリーいわきで開催されていて、ぼくたちが作品をひと通りみて、帰ろうとしたところ、ギャラリーのオーナー藤田さんが

「まあ、コーヒーでも飲んでいってください」と誘ってくれた。

ぼくたち夫婦も作家活動をしている、と話すと、いわき画廊の歴史を掻い摘んで話してくれた。毎年開催している大下さんの作品展が、オーナーがグッゲンハイム美術館にいく予定があって、今年はスケジュールが少し遅くなったという話題をきっかけに蔡國強(さいこっきょう)の名前が飛び出してきた。

今でこそ世界的に有名な蔡國強(さいこっきょう)は、中国から日本に活動の場を求めて、火薬を爆破して描く抽象画を都内の主要なギャラリーで見せて回っていた。1985年頃の話。けれども、中国内でもまだ知名度もなかったその作品を評価する人はおらず、ちょうどいわき市で、ギャラリーをはじめた藤田さんは、知り合いに紹介してもらった蔡國強(さいこっきょう)の火薬で爆破する作品に惚れて

「売れるか分からないけど、ウチで展示をやらないか」と話してみると、

「それはいい。もちろん、ぼくだって売れるか分からない。ぜひやろう」と交流がはじまった。

藤田さんは、そのときに作品を購入していた。日本で蔡國強(さいこっきょう)の価値を見出した最初のギャラリーだった。

蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんを通じて、いわき市に惚れ、この地に滞在して作品をつくるようになる。

みんなお金もなかったので、お昼におにぎりを食べたりして海で遊んでいるうちに蔡が

「いわきの水平線に赤い線を走らせたい」と言った。驚いた藤田さんがやり方を聞てみれば
新月の夜に船を出して、船から船を導火線で繋いで着火する」という具体的なアイディアだった。けれども実行するための金もないので、導火線1メートル幾らというカタチでお金を集めて、船や海の使用許可や地域の人々、自治体の協力によって、それは実現される。

いわきの水平線に爆破の赤いラインが走った。このときの写真が、蔡國強(さいこっきょう)の作品として一人歩きをはじめる。カルティエ財団に所蔵され、火薬を使う蔡國強(さいこっきょう)の名前は広まり、ニューヨークに1年間滞在することになった。そのとき藤田さんは、いわき市で制作した蔡國強(さいこっきょう)の作品を預かった。

ニューヨークに渡った蔡國強(さいこっきょう)から、藤田さんに相談の連絡がきた。「いわきの海に沈んだ船をニューヨークに送って欲しい」というとんでもないお願いだった。藤田さんも蔡國強(さいこっきょう)も古い木造の船が沈んでいる場所は分かっていたので、それを引き揚げ、解体してニューヨークに送った。

いわき市からの贈り物」として展示された作品は、蔡國強(さいこっきょう)のいわき市への愛だった。その土地とそこにいる人々への。蔡國強(さいこっきょう)は、藤田さんをはじめとするいわき市の仲間たちをプロジェクトメンバーとしてニューヨークに招聘した。

その廃船はたちまち話題となって、世界各地を巡回することになり、藤田さんたちは、プロジェクトチームとして、船の解体から設置をして世界を回った。それから蔡國強(さいこっきょう)のプロジェクトにとってお金はさほど問題ではなくなった。彼のユニークなアイディアをカタチにしようと出資する人や団体が世界中にいるようになった。

世界を代表するアーティストになった蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんに「預かっている作品を売ってくれ。いまなら売れるし、それぐらいの作品ならこれからいくらでもつくれる。売れればギャラリーの運営の足しになる」と言った。

藤田さんは当時の蔡國強(さいこっきょう)の作品の写真を眺めながら
「売りたくない作品もいっぱいあったし、自分が所有しているのも売ったんだ。またつくると言うから。でも今振り返ると、やっぱりそのときの作品は、そのときにしかないんだよな。そう思ってたら蔡國強(さいこっきょう)から連絡がきて、あの頃売った作品を手放したい人いたら買ってくれ、て言うんだよ。やっぱり、同じようなものは作れないんだよな。そうやって成長して作品が変わっていくのもアートの魅力だよ」

廃船になった作品から派生した廃材を組み合わせて建てた3つの小屋があった。それは積み重ねると三重の塔になる作品だった。船とセットだから共に巡回する計画だったが、大き過ぎてコンテナに入らなくて、3つのうちのひとつはプロジェクトから切り離されることになった

そのひとつは、行き場がなくなり、廃棄されるなら、北茨城市磯原の藤田さんの土地に置かれることになった。

ところが、2つしかない三重の塔を見たギリシャの富豪が、ぜひこの塔を3つ揃えたいと言って、輸送費も全額出すからと購入することになった。北茨城市に置かれた小屋は、ギリシャに運ばれていった。それ以来、三重の塔は、ギリシャの富豪が大切にして、どこにも貸し出しもされることはなかった。

一度、蔡國強(さいこっきょう)ギリシャの富豪に三重の塔を展示したいと話したら、誰かが傷つけたり放火なんてされたら困るからと断られたそうだ。

いわきの海に沈んでいた廃船と、その廃材が世界屈指の美術品になったのだった。そして北茨城市にも、その作品がひっそりと佇んでいたこともあったのだ。

藤田さんと蔡國強(さいこっきょう)の交流はいまも続いていて、ニュージャージー州にある蔡國強(さいこっきょう)の別荘に、日本庭園をつくるプロジェクトが進んでいて、藤田さんはそのためにアメリカに行くんだ、と話してくれた。別荘には料理人がいて、旅費もすべてプロジェクトが賄ってくれる。

 

30年に及ぶ、ギャラリーとアーティストが歩んできた軌跡が、いわき市の小さなギャラリーで語られた。ここは世界の片隅かもしれないけれど、片隅から世界の中心へと飛び立っていく可能性はどこにだってあること教えられた。