いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自分が強く正しいと思うとき、それは間違っている

f:id:norioishiwata:20171201101746j:plain美しい場所をみつけた。いま改修している古民家の裏の景色。耕作放棄地の奥には手入れされないままの森林。緑色は針葉樹林で、戦争中に植林された。家族親戚総動員でやったそうだ。将来、資産になる見込みだったから、日本中で植林をして、どこの山も杉や檜が植えられて年中緑色になっている。赤色や黄色のところは広葉樹で紅葉している。そこは、もともと植林しなかった原生林か、もしくは杉や檜を伐採して放置した結果、再び原生林に戻った、と教えてくれる人がいた。

 雑草は、人間が開拓したところにしか生えなくて、自然が回復しようとする生態系のシステムで、種類を変えながら大きくなり、ススキは、雑草から森へと移り変わる手前だと聞いたことがある。

 かつては、田んぼも畑もやって、生活は井戸水が潤し、山から薪を集めて火を焚いて、山から動物を獲って、実はこの家の裏には川もあるからヤマメなんかを漁っていた。時間を50年ほど巻き戻せば、ここには人間が生きるために必要なモノコトがすべて揃っていた。何千年もの時を賭けて日本人が自然から、編み出した生きるための知識が、ここにはあった。昭和の高度成長期前にあった日本人の暮らし方は、自然と共に生きる技術の世界最高水準にあったと思う。

 ここは、茨城県北茨城市富士ヶ丘の楊枝方。この地域は、世間的な言葉を借りるなら限界集落という場所だろう。つまり、日本人は、こういう場所には住みたくない、もしくは住めなくなってしまった。けれども、ご覧の通り、ここには美しい自然がある。しかし、自然が美しいとき、それは人間が開拓していないからで、人が離れてしまい興味を持たないから、この美しさがあるという矛盾だったりもする。

f:id:norioishiwata:20171201101950j:plainネットのニュースで、もんじゅ廃炉を想定した設計をしてないから燃料が取り出せない、という記事をみた。それについての批判もたくさん見かけたけれども、原子炉どころか、終わりを想定しているモノコトなんて存在していない。そんな後始末のことよりも、もっと先へと進みたい。それが欲なんだと思う。

 マンションだって50年前には永遠に壊れないと販売されていた。住宅だって壊すことを前提に設計されていない。恋愛だって終わるつもりはない。死ぬつもりで、生きてる人もあまりいない。

 いま古民家の周辺にある小屋や隠居を解体して、その材を再利用して、古民家と農小屋を改修している。解体した廃材は、処分するのに費用がかかる。家具だって冷蔵庫だって。もんじゅの記事を見て、自分のことに置き換えるなら、壊すことを想定した住宅とは何だろうか、と思う。古民家は、ほとんど自然物でつくられている。100年前なら、ほとんど自然の循環のなかで処分できただろうけど、いまは、対価を払わなければ処分できない。つまり、ぼくらの目の前にあるほとんどは、その終わりを想定してデザインされていない。

そもそも、現代人の暮らしは、循環していない。食料も廃棄するし、毎日のゴミがどこへ行って、どう処分されているのか知らないし、糞や尿がどうなっていくのか、知ろうとすれば知れることさえ、興味を持たないまま、日々を過ごしている。けれども、それを知らずに生きれることは快適かつ幸せなのかもしれない。

かっての暮らしは、そうしたすべてを自分の手で処理しなければ生きれなかった。勉強したくても、遊びたくても時間がなかった。

古民家の家主だった有賀さんの叔父さんは、夜中に家を出て、駅まで10km歩いて始発に乗って、水戸まで高校に通ったらしい。たった50年で、それだけ時代は変わる。もし有賀さんの叔父さんほどの熱意と行動力がこの時代にあったら、どれだけの夢を叶えられるだろうかと、思う。

 

かつての暮らしがあった場所で、自然を目の前にすると、自分の行いのほとんどを悔い改めたくなり、少しでも何かを循環させてみたいと考える。だから、解体した材料で、家を改修している。家は生き延びようとしている。サバイバルしている。

 f:id:norioishiwata:20171201102224j:plain最近、自分が強く正しいと思うとき、それは間違っていると思うようになった。「正しさ」なんて、とても曖昧で状況や立場によって変わってしまう。例えば、新築の住宅を建てる建築士に「あなたはこの家が壊れるときのことを考えているのですか?」と抗議したところで、建築士さんは、それとは全く違うベクトルで200%の正しさを追求している。

 どうして森林を活用しないのか、と訴えたところで、ぼくの知識が及ばない事情で、もう何年も前から、そうなっている。目の前の自然が美しいからって、どうして、みんなは自然を大切にしないのか!と憤ったところで、それもやっぱり、なにか違うと思う。

ハッキリしているのは、やたらに「正しい」と主張するひとは、正しくない。間違っているということ。なぜなら、みんなが、それぞれに正しいから。自然は、それを教えてくれる。針葉樹林も広葉樹も雑草も、みんながそれぞれに生き延びているから、その逞しさが美しい。