いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

平潟港漁夫の今昔物語

f:id:norioishiwata:20171121225054j:plain北茨城市は北側のトンネルを抜けると、すぐに福島県いわき市になり、そこに、近隣のひとたちが利用する小さな温泉がある。そこに行くと、いつも地元の人の話が聞ける。

今日は60歳後半の漁師、ジンサンの話。

平潟の海は、昔から豊かで、明治時代から漁業が盛んだった。伝馬船(てんません)という小さな舟を手で漕いで、底曳き網漁をしていた。平潟の港は、茨城県のなかでも、もっとも魚の種類が豊富に漁れる港だった。だから、むかしは築地辺りで、平潟と言えば、名前の通った港だった。

話してくれたジンサンが、漁師になったころは、先輩たちは、漁の名人ばかりだった。イカの名人、ノドグロの名人、網の名人、舟の名人。とにかく、技術は充分あり、魚がたくさん漁れるから、みんなノンビリ暮らしていた。

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ところが、いつからか、北の方の港の船が平潟まで来るようになって漁をしていくようになった。平潟の船が悪天候で休む日も、漁をしにやってくる。しまいには、イカの産卵期で漁を休んでいるのに、イカも魚も奪っていく。

漁のエリアに当時は制限がなかったけれど、いくらなんでも酷いから抗議にいった。すると北の漁師たちは「お前らの漁が下手なだけだ」と言う。

平潟の漁師たちは、もともと、豊かな港でやってきたので、比較的性格も穏やかだから、腹立ったけど、怒りを抑えて、またいつものように漁をして日々を過ごした。けれども、乱獲する漁は、次第に海の生態系に影響を与え、豊かだった平潟港の水揚げ量は、減っていき、漁業が成り立たなくなり、倒産するところも増えてきた。ジンサンも、平潟で漁ができなくなり、大津港の船で漁師を続けていると話してくれた。

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東日本大震災があったとき、北の漁師の船も道具も何もかもが、津波に飲み込まれて、漁ができなくなった。世間は、北の漁師たちに同情するけど、俺は、やっぱり悪いことすると、それなりの報いがあると思った。

震災の原発事故で放射能が海に流れて、宮城は、宮城の海、福島は福島の海、茨城は茨城の海って、エリア分けされて、そとの漁師が、平潟に来なくなってから、平潟の海の生態系が戻ってきて、イカもたくさん漁れるようになった。

俺は漁師いっぽんでやってきて、魚が漁れないのが一番つらいから。いまは、大津港の船に乗せてもらって、仕事ができて、御飯が食べれて幸せだ。

ジンサンは湯船に浸かりながら、そう話してくれた。