いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

野生の技術を求めて 2017

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元旦の朝、6時に日の出を拝みにいった。長野県諏訪湖の畔り。静かな湖面と空が喩えようのない色をしていた。言葉にならない現象に遭遇すると絵にしたくなる。

 昨年は、念願だった古い家を転々として、愛知県津島市三重県志摩市の安乗、神奈川県湯河原市の福浦に暮らしながら旅をして、岐阜県中津川市の古民家に、いま暮らしている。空き家から始まった活動は「自然と人間」というテーマに広がってきた。

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ぼくは「働かなければならない」ということが10代のころから理解できなくて、長く悩んできた。だから、子供もいないので、嫁に協力してもらって、生き方の実験をすることにした。何をしておカネを手に入れ、どんな家に住んで、どんな場所に暮らすのか。つまり、生活そのものをつくることにした。

 古い家でも自分さえよければ、都市から離れるほどに家賃はとても安くなる。そんな地域には仕事がないというが、自分が生きていくだけの仕事なら、つくったり、みつけることもできる。例えば10代や20代、もちろん生涯に渡り、好きなことに没頭したいなら、こういう手段もある。

 他人が必要としないモノコトで足りれば、そんなに働く必要もなく、千利休の言葉のように「家は雨が漏らなく食事は飢えないほど」で充分生きていける。「働かなければならない」をやらずに3年間やってきた漂泊生活は、野生の人間という視点を与えてくれた。

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 歴史を遡れば、人間は自給自足できたが、いつも管理者たちに苦しめられてきた。米は収穫者の生活を満たさなかった。人間は人間を管理するために狩猟採集から定住型へと変更させた。安全安心な管理された環境で、生活のすべてをサービスと商品として提供され、それを手に入れるために「働かなければならない」という常識に囚われているのではないだろうか。

ぼくは、定住しないことで、商品とサービスの範囲外に生きる方法を追求することになった。

人間が本来持つ能力を発揮できるのは、身ひとつで自然と対峙したときで、それはスポーツやアウトドア、かつての不便な生活のなかに埋もれてしまっている。ところが、その能力は、なかなか習得するのに時間がかかる。だから、おカネを出して手に入れることもある。でも、本来の能力を発揮しようとするなら、そこで要求されるおカネは、そんなに多くないから、生きるための労働は「しなければならない」ではなく「やりたくてしょうがない」という自発的な喜びに満ちたものにすることができる。 なぜなら、自分が生きるだけならば、人間はそんなにたくさん働く必要はないからだ。

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こうした経済圏と自然界の境界線でフィールドワークを続けるために、ぼくはアート作品を嫁とつくって売ったり、知人の仕事を手伝ったり、家の改修などで、対価を得て生活の糧にしている。つまりは、人が興味を持ってくれるから、2013年から生き延びることができた。途切れることなく、仕事と貨幣が循環して、僅かな理解者に助けられ生きている。ある意味で、これも自然なことかもしれない。ほんとうに不思議な現象だと思う。

 経済圏の外には、なかなか面倒で厳しいところもあるけれども、うまく付き合えば、恵みを与えてくれる自然があるので、その魅力や活かし方を紹介していきたい。
 小さな生活を抱えて、2017年も嫁が理解してくれる限り、旅を続けようと思っているので、本年もよろしくお願い致します。

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