モノをつくるとき、材料がどこからやってきて、どうなっていくのか、考えてみると、すべて自然にあるものを利用できれば、成り立ちからその最期までが美しい。
山梨県、昇仙峡の近くにあるキャンプ場で開催されたフェスOff-Toneで、会場にある石や木や草を並べ、曼荼羅をつくった。日が沈む頃に燃やし始めて、朝には灰になり、すべてが消えて無くなる。ぼくら夫婦が、もっとも理想とする作品のカタチだ。
考えてみれば、生活のすべてを選択できて、それらがどう社会に影響するのか配慮して手に入れるなら、世界をずっと美しくできる。それは政府や企業がコントロールするものではなく、生活者の側からコントロールできる未来だ。ぼくは、それを「社会彫刻」と呼んでいる。その選択肢には消費だけでなく、自然も含まれている。
しかし、自然を相手にすることは、商品やサービスに比べ、扱いが難しく骨が折れるし、時には人から何かを奪うような暴力を働くこともある。それでも、何千年も、もっと遥か昔から営み続けてきた地球のシステムに従い生きる能力は、これからも絶対に必要不可欠な技術だ。
それらの能力は当然、商品やサービスではないから、どこにも売っていない。それらは、かつての知恵や、忘れられつつある、もしくは、役に立たたずに、サービスや商品未満として放棄されている領域にある。ぼくは、それらを掘り返して、社会に還元させたい。それを「生活芸術」と呼んでいる。
社会には社会なりの像があり、無意識の「こうした方がよい」という強制力がそのカタチをつくっている。戦前、戦後、高度成長期、バブル崩壊、東日本大震災以降、それぞれの時代にそれぞれの常識感覚が流通していた。
テレビも、冷蔵庫も洗濯機もないぼくら夫婦の生活は、両親の世代には美しくもなく、むしろ、なんでそんな暮らしを自ら選択するのか、と嫌がられることもある。それもそのはずで、常識や商品やサービスの外側に生活を発見しているからで、それでは100年以上も前の生活に逆戻りしてしまうからだ。
何かをすれば、同時に何かを失う。ひとつの木を切れば、その木はなくなる。お金を使えば、自分の手元から消える。もっと、質のよい木を欲しいと手に入れれば、誰かはその木を手に入れることができない。お金をもっと欲しいと手に入れれば、誰かの手元からはそのお金は消えていく。しかし、みんなが同じ競争をする必要はない。
そもそも「働く」とは何なのか。人と人の間にあるニーズを満たしたときに価値が生まれる。それは貨幣流通以前から存在するコミュニケーションであり、経済の原点である。山の中にある木や石や草を集めても売れるほどの価値はないが、並べ方や場所や環境を考慮して、周りの人のためになる行為であれば、そこには価値が生まれる。
「生活芸術」は、人生そのものが作品で、誰もがつくることができる。その生活は、明らかに質素で、しかし、他の誰よりも豊かである。水が、高いところから低いところへ流れるように。至るところの生活を潤す、純粋な水のように。